聖書ヨハネの黙示録講義(上)作者:呉明憲兄弟 |
聖書ヨハネの黙示録講義ー目録 |
ヨハネの默示録の第2・3章の内容は、「今時の事を述べているのです」。使徒ヨハネは、キリスト・イエスの使徒で、当時にある教会の方ですので、使徒ヨハネにとって、教会時代の事と言うのは、「今時の事だと言うのです。神様は、これから2千年の間に教会の発展光景を予言し、七つの教会を代表にし、教会時代の終わりをを述べていた。ここに七つの教会と言うのは、エペソ教会から最後のラオデキヤヘ會まで、そして、キリスト・イエスが再び来るまでのキリスト教会の2千年以来の発展過程を予言されるのです。ここで、我々は「今時の事を」及びこの2千年の教会に対する神様の予言と七つ教会の時代背景を説明しなければならない。 七つ教会はそれぞれ時代の背景があるのです。エペソーと言う意味は、ギリシャ語の意味は、羨ましいことです。スミルナにあるヘ會の意味は、没薬(天然ゴムの樹脂で、古代の貴重な防腐剤)又は苦しい事を意味する。ペルガモにあるヘ會の意味は、「連合」、又は高台で、テアテラにある ヘ會は、香りの祭りと言い、サルデスにあるヘ會は、回復の意味で、フィラデルフィヤにあるヘ會は、兄弟相愛の意味、ラォデキヤにあるヘ會は驕る意味で、熱くも 冷たくもないのですが、この七つ教会の述べている意味はまさにこのような光景の意味です。 七つ教会の名前は全て都の名前でしたが、コリントシテイー、エペソ・スミルナともシティーだった。地図上にも見つかる事が出来る。ヨハネの默示録は非常に奇妙で、偶然とも言えるこの七つの都の名前を黙示録が述べる事によって、神様がそのまま使用されたのです。神様はこの七つ都の意味において、これから発展されていく教会歴史をこの七つの都の現状と実態を組み合わせて、その予言をしたのです。教会発展の歴史は七つの階段にわけて、神様はその後に必ず起こるべき事を述べました。今になって、真面目に聖書を読んでいる方が、この2千年の世界と教会の発展歴史を聖書に照合わして、その真実は正に聖書の予言される通りに起こったことを世界に示した。 もし 教会の発展歴史を図のように書けば、第一段階は、使徒時代の教会と言いますが、その名はエペソーと言います。第二段階―スミルナ・第3段階―ペルガモ・第四段階―テアテラ、テアテラ教会から横並び生まれた四つの教会、テアテラーも含め、サルデスー教会・フィラデルフィヤ教会・ラォデキヤで、この四つの教会が、現在の21世紀になっても、存在し、そして 主イエス・キリスト再来の時まで存在続けるのです。 テアテラ教会からサルデスー教会が生まれ、サルデスー教会からフィラデルフィヤ教会が形成され、フィラデルフィヤ教会かラォデキヤー教会が誕生したのです。ですので、教会の発展史は第四段階のテアテラ教会からサルデスー・フィラデルフィヤ・ラオデキヤー横並びの方向で発展して行って、主が再来まで続くのです。 初めのエペソ教会と言うのは、即ち使徒時代の教会で、羨ましくできる教会で、兄弟たちの信仰の光景が非常に信仰深く、またはイエス・キリストの12使徒がいて、大勢の先見者があって、その理由の如き、教会の光景がよかったのです。彼らは有能で、真理があって、すべてはあるが、『初めての愛心』を離れて、これによって、神様から受けた責めである。彼らはまた偽預言者を見破ることができるし、これらの使徒たちは神の言の規模を持っていて、異教の風が無理に彼らを揺らすことができない。またヨハネ・ペテロー、ヤコブ、パウロのような大使徒がいて、神様の言で、彼らを率いて、真理に対し、非常に明確ですので、『エペソ教会は』、『羨むことができる教会である』と呼ばれる。この時期の歴史は、約50年から100年の間で、ずっと大使徒たちがで世界を離れて、主の所に行かれるまでです。 使徒時代の後に、二つ目教会はスミルナと言い、前に申した通りに、ギリシャ語の原文が『没薬であると同時に、又『苦痛を受ける』意味である。没薬は一種の香料で−人の死後が没薬で身体を擦らなければいけない;この文字の表現の如き、苦しい目にあう意味です。使徒時代を示す教会が過ぎ去ってから、ロマ帝国が押し寄せてくることになる時代となる。 西暦一から三世紀になって、教会全部はロマ帝国の統治下におかれた。この時期は約300年の長さがあります。だから黙示録2章10節において:あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ、あなたがたを試すために、悪魔はあなたがたのうちのある者を、獄へ投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、患難を受けるであろう。死に至るまで忠信であれ。そうすれば、わたしはあなたに命の冠を与える。 この時期のクリスチャンは古い墓の聖徒と呼ばれて、多くの人は獅子のいる洞窟に落とされ、生きながら喰ってしまわれる。300年の長い時期に、殺害されるクリスチヤンの数は数数えられないほどがいて、クリスチャンは常に落とされたロマ円形競技場の中に駆けつけ獅子と丸腰の格闘、多くのロマ帝国の庶民に向け、大衆向きの娯楽とみなされた。捕まったクリスチヤンが落とされて、多くの年寄りの方がいて、その中に八十歳を超えた一人の老いた老人の囚われがいて、あの兵士は憐憫を発して、彼に話して:『ただあなたは、イエスを不信と話せば、私はすぐ直ちにあなたを釈します。この老いた老人が彼に答えた:『私の神は私の数十年にわたって、見守ってくださって、私はどうして年取ってから、かえって彼を見知らないといえるのか?』結果は彼はすぐ落とされてしまった。あるいは、母親の囚われで、娘を母の前に呼ばれて、泣き叫びながら、要求は母親が主を見知らないと言えば、ただし母親は依然として所信の神を堅持したので、同じように、落とされrはめになった。 スミルナー教会時代の聖徒達は、それぞれ教会時代の聖徒のように、主のために多くの艱難受けた。三つ目の教会は、ペルガモといい、ギリシャ語原文は『連合』で、あるいは『高台』の意。4世紀の時、ロマ皇帝のコンスタンチンはクリスチャンとなったことによって、起こったのです。ロマー帝国はキリスト教の国家と宣告してから、多くのクリスチャンが誕生したが、その前で国家に基づく法律は、イエスを信仰することは禁止されていた。キリスト教に入れば、捕まったら、すぐ殺されてしまう。実を結ぶ或る日コンスタンチンロマー皇帝自身が、イエスを信ずるようになり、皇帝は兄弟に変われ、、同時に教会と国家が連合となって、すなわち政教統一になったのです。そこでロマ皇帝は皇帝でありながら、同時にキリスト教の法王となり、法王はこの時期からから生まれた。 そこで一夜にして、天地が変り、クリスチャンの世界が大きく変りました。あの時のロマーでは暗黙の了解があって、イエスを信ずるローマ皇帝を兄弟と称することが可能に、その上、当時にして、貴重な服をただでもらうことが可能となる。それゆえ全体のロマー帝国では上から官僚まで庶民奴隷のすべてがハチに至って、競争の末にキリスト徒になる為に至る。 それから、すでに雑多な偽クリスチャンが教会に入り込んで、雑多な偽あかしを持ち込んで来る;あの時すでに『アンテパス』が主の誡めを守る通り− 彼らは教会とロマ連合の間にあるひと群れで、主を本当に愛する兄弟達である。彼らは教会政教統一が見え、真理の光景を歪められるて、非常に心痛すると感じる。 『アンテ』はすぐantiで、対抗した意味;例のanti−Christはすぐ反キリスト、敵キリストの意です。『パス』はすぐpan−、ギリシャ文のそのとおり一般的意味です。だからanti−panは一切の情勢の全てに対抗した意味ということになります。 教会が浸礼のバプテスマを水礼のバプテスマに変えられ、聖書の教えを勝手に変えた。そして全部教会に相まって割り込んで来るので、面倒なやり方を撤廃し、だからこれは免れて、あれも免れて、人のあまりはすぐ権力争いを発展する。 ローマ皇帝は兄弟である以上、教会は当然金持ちとなって、多くの不正者がすぐ偽のクリスチャンに変装し、教会に入り込んできたのです。尚 執事会の一員まで昇り詰められ、、そこで教会を制御する;並びに神様の事をよく認識しないことで、いくらかはめちゃくちゃな意見が出始めて、聖書の真理をまったく勉強しないで、教会を一つbusinessチャンスとみなす者は、皆一緒にこの『高台と連合する』を為すことに来る。今の時期から始まって、ローマカトリックの前身もゆっくりと成形される。ロマの皇帝は同時に教会の領袖で、政治と教会を一括している為、ペルガモ教会は、『連合』で、またゆえに、連合される対象は皇帝であり、だからまた『高台』をよぶ。これにも長い時期があって、聖書に基づいて、これには約50年100年の時間でした。この間の教会光景はともに悪い。 すべての人々は、イエス・キリストを信ずることによって、全部洗礼を受けるため、浸礼の儀式で、が間に合わない為、点水の洗礼に換えてしまった。、聖書教訓の真理を遠く離れる。もと浸けることを受けて、川で行うべきで、或いは川の中で、又池の中を浸けることは行っていたが、現在のバプテスマ教会は、聖書の真理を回復するためにバプテスマの呼び名を付けたのです。 聖書は浸水礼を点水洗礼と教えた事がなく、聖書によるパプテスマは、水の中に全身を全部浸けてから、再び水の中から上がって来る。 イエスキリストはヨルダン川に行って、全身を浸するパプテスマをお受けることになったのです。 マルコ福音書1:9.そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネによってバプテスマされた10.イエスは水から上がられると、直ちに天が裂けて、その霊がはとのように彼の上に下って来るのをご覧になった。
神は自分で私たちに最もと正確な儀式を教えてくださったが、 私たちは水礼を受ければ、救われないと言えないが、ただし安全のために依然として浸礼によってこれには勝利を得ることと重要な関連がある。 テアテラのギリシャ語の意味は、『香気の祭祀』であり、拝みによって、使用されているお線香で、彼女はローマカトリックの特徴である。 この教会には最も大きな特長は偶像を拝むことであるが、ローマカトリックの教会に入ることがあって、その裏には、中国民間の偶像の寺が全く同様で、中には沢山の線香があって、よりに多くの偶像があります。 十の誡めにある第1の誡は、 聖書の戒めによると、与えて下さった教訓につき、人が、動物の像であることにも拘らず、天上の日月星辰であるいかなる型も偶像を崇拝にすることがいけない。 私たちはカトリックの教会の中を覗いてみれば、中には多数の偶像であり、その中に十二の使徒の偶像があって、多くの聖徒の像、聖パウロ、聖ヨハネ、、聖という名を付けての偶像が多かった。又イエスキリストの像もあり、すべては偶像で、当然のことだが、聖の母マリアを漏らすことができない。あれらの偶像にある前で、すべてお線香でひざまずいて拝む、非常に厳重だった。、だから聖書は女を『香気の祭祀』と名付けた。マーチンルテルーは自分で話した通り、真理を認識する前では、彼自身が聖母マリアに祈るだけで、困難に落ちる時も、聖母マリアにお助けをお祈りした。 兄弟たちよ;私たちが聖書を読んだことによって、聖書の言う事を理解できれば、お分かるように聖母マリアへの祈りが無意義である。今の私たちが見えあ一切キリスト教に関連してある偶像彫刻にも拘らず、画像など、すべてカトリック教から伝えてきたものである。特に私たちは、主イエスの像と彫刻を見て、フランス映画俳優のアラン・ドロンよりもハンサムである。しかし聖書において、イエス・キリストに対する描きは、そうではないのです。 イサヤ書53章1.私たちの聞いたことを,だれが信じたか.主の御腕は,だれに現われたのか.2.彼は主の前に若枝のように芽生え,砂漠の地から出る根のように育った.彼には,私たちが 見とれるような姿もなく,輝きもなく,私たちが慕うような見ばえもない. もし主イエスが今、世間に行きわたった絵のようにハンサムであれば、彼は地上に福音を伝えていた当時、もっと倍の人が彼の言うことを信じるだろう。 兄弟たちは、どんな偶像でも彫刻すべきではない、パウロ、12の使徒、マリア、主イエスの像は、全部彫刻すべきではない。主イエスが復活する以後に、マリアさえ主を認識できないで、主イエスが復活してから、テベリヤの湖で、使徒たちが彼に出会っ時でも、主である事を知らなかった。 13 それゆえ私たちは、主イエスが一体どんな格好であるかと知る訳がないし、どうしてまだ偶像を彫刻出来るでしょうか?テアテラ教会は神様の誡めを知らんぶりにして、偶像への拝みを開始した。今でもカトリック教が依然として、同じの「香りの祭りを行っている」。一列の蝋燭、上には線香を立てていて、ただイエスの像及びマリアの像が中国の三国誌の関羽又は台湾の寺にある媽祖の像のような作り方で、作り換えられるように見え、まるで、台湾の仏教の寺ー行天宮、媽祖の廟のようえある。 教会はこの時期から偶像拝みを開始し、約一千年の長い時期を経て、16世紀に至って、神様はドイツ人のマーチンルテルーを使って、教会の偶像崇拜の過ちを訂正させて、教会はやっと偶像崇拝の過ちを禁絶することを回復したが、。ただし、ローマカトリック教会は相変わらずに『香の祭祀』を延続し、偶像拝みを行っていて、恐らく、聖書の書いたとおりに主再来まで至る。 これ以外にも、テアテラ教会が千年余りに全世界の教会を掌握されたこの時期に、迫害及び殺されたクリスチャンは、ローマ帝国三百年の時代より、遙かに多いのです。ローマ帝国は後に東西ローマ帝国を分裂させたあげく、すべての権力継承が教会の手に回帰したが、元々政教統一の『政治』がなくなって、ただ積み立てるローマパチスカン法王は依然として政教統一に君臨する。 ただし後になって、出て来た『君の権は神様が授ける』ことについては、即ち女はあの『地上の衆の王の大城を管理するとなった』。黙示録17章節18あなたが見たあの 女は, 地上の 王たちを支配する 大きな都のことです。ローマカトリック教は宗教の力を運用し、千年余りの時にわたって、殆ど全世界を統治し、その統治手段も非常に恐ろしいと言えよう。 テアテラ教会は、『香の祭祀』を行う以外でも、お金を集めるために、更に『罪の贖罪券』を信者らに販売した。人々にイエスキリストを信じ、罪を赦されるのに、不十分なので、この贖罪券を買うこそ、霊魂が救われる。そしたら、地獄にいる両親の泣き声が聞こえないでしょうか?又自分の兄弟姉妹の苦痛の叫びが見えなかったのか?ただ少しだけのお金で、贖罪券を買えば、彼らを地獄から救い出すことができると嘘を巻いた。このようなやり方は、偶像を拝む宗教のようなゴルドの紙を焼くとは、全く同様だった と言うことで宗教改革家のマーチンルテルーは、ウエテイン砦にて(城の名前)ローマー法王に教会の95条の罪状を宣告し、その過ちを指摘した。特に贖罪券の販売の件につき、強く非難された。彼は聖書真理に基づいて、同時に信義の教会を作り出して、人々に福音の救われる条件を「信によって義を称する」と述べ伝えた。 エペソ教会の使徒達時代からテアテラ教会まで、キリスト教にとって、史上最も道徳が墜落し、全体教会が最も厳しさ、最も暗い時期でした。要するにこれはテアテラ教会、七つ教会の中にある一つの教会光景である。 黙示録二章19節;「わたしは,あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており,また,あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも 知っている。 ローマカトリックには今になっても、まだ多数の宣教師・修道女がある、彼らは多くの人助けを持っていて、大勢の善事を致しました。 すでに逝去したテレサ修道女のようで、ノーベル賞をもらった彼女はインドに居て、あんなに悪劣した環境の中に、歩いていた大通りの傍らに横になった餓死された死体を見た彼女は、こんなに酷い国にテレサ修道女はかえって、自分の一生をインドに捧げていた。彼女は、主の偉大な僕である。 14 世界の各地には多くの病院孤児院など、その多数はカトリックのクリスチャンによって、作られた。カトリック教にも多くの修道院を持っていて、中には大勢の修士・修道女がいて、そのすべては、神様に仕えるために終身が結婚しない人々である。カトリック教にはどっさりと見識のない人がいるが、主のために犠牲代価を払っても好いという聖徒は、大勢がいる。彼らは聖書の真理を認識していないが、非常に神様を愛している。エペソ教会はかえって正反対で、真理があるが、神様を愛していない。神様の偉大さを知っていても愛していない。『初めての愛を離れたというのだ』。たとえ不思議に創造されるサタンのようであっても、彼は神を認識して、ただし神様を愛していなかった。 創造されたアダムとエバに、貴方は彼らに神ヤハウェのことを伝える必要がない。彼らは神様をよく知っていたからである。特に神様は常にエデンへ彼らを見る為に行く。 もし 誰かあの時、彼らに台湾にある観音様の事を伝えれば、彼らは信ずる可能性があるのか?又彼らに人間が進化論の言ったとおりに猿から進化されてきたと告げても、彼らは信じるはずがない。すべての異端や邪説でも、彼らを揺らがすことができない、アダムは神を認識していたのである。。人が神様を愛する事と神様を認識することは、まったく同じ事ではない、彼を神であると知っていても、ただ彼を愛したとは思えない。但し 一部のカトリック教の聖徒は、非常に神様を愛するのです。 ローマバティカンの『香の祭祀』を経過し、引き続いてー五つ目の教会であるサルデスに入り、ギリシャ語の意味は『回復した意味である。』此の頃すでに16世紀まで達し、マーチンルテルーの宗教改革及び聖書真理を回復することが宣告された時期だった。要するに信によって義を称するという聖書真理である。 彼はウエテイン砦にて(城の名前)ローマー法王に教会の95条の罪状を提起し、その過ちを指摘し、特に贖罪券の販売の件につき、強く反対した。その時からルーテル教会と信義教会が作られた。『ルーテル会は』マーチンルテルが設立される教会で、信義会は主の教えよって信義を称するための教会と浸水のパブテスマに回復するが。長老教会は長老の知恵を回復し、衛理キリスト教会はウエイスリーによって設立され、これらの教会の更生行動によって、聖書の教える真理を全部回復されました。 真理を回復することにより、五つ目のの教会ーサルデスが、キリスト教の『新教』に入り、此の頃から、旧教というのを指したのは従来とおりのカトリックを指すのである。実はカトリック教とキリスト教とは同じキリスト教ですが、ただしサルデスの光景は良いことではない。 各教会は回復した真理であれば、どんなの真理の帽子を被るとしたら、その教会の名前を回復した真理や改革した人の名前を名付けられた。そして教会は諸般の宗派になって分裂して、『地元教会』は元来聖書の一地一会の真理を回復するために設立されたが、其の後、同様に教会自身が一の宗派グルプに変えられ、地方教会をを叫ばれるようになった。 この裏では、いくつか深い神学問題があり、機会があれば、再び話をすことができる。 ただし このような派閥分裂で、現在のクリスチャンが地上に宜しきあかしができない一つの原因になる。人々に質問され:あなたたちは一つの神であるゆえになぜこんなに多い宗派に分かれるか?又はお互いの間にそれぞれの見方があって、非常に不思議な教会ではないか?我々クリスチャンはただし神様の慈悲憐憫を頼むしかない、これも確かに大勢の人に転倒させることになるだろう。もし教会が統合しなければいけなくて かつ、どうして統合することが当然ならば?統合がどこにあることを求めるか?これは中国20世紀初めに神様の僕ー倪柝声兄弟の所見である。教会は統合される事が重要であって、当然にも地元の立場によって統合されるべきである。 台湾台北教会を例に例えば、『台北教会は台湾台北にある教会』で、すべての台北の聖徒を指して言われるべきであるので、、全部が台北教会に属することになる。もし地元の立場にある教会であれば、或は それぞれの名称を言うのも、例えばバプテスマ教会や長老教会などを区別されれば、これこそキリストの教会を分裂させる意味をする。 例えば エペソ教会は、エペソと言う都にある神様の教会であり、もし我々はエペソ都にあるエペソー長老キリスト教会を設立すれば、これこそ神様の体を分裂させるのではないか? しかし 倪柝声兄弟により設立された地元の教会でも、同様に変質になって、一つの宗教派閥に陥ったのです。更に自分自身の教会こそ正真正銘の教会であり、其の以外の派閥教会が本格教会ではないとも思っている。これは大いに倪兄弟のひとつオーバーライドの原則に侵犯した:その原則は神様こそ権限がある。いかなる人は、神様の掟の中に勝手に規則を定めるのも神様の身体を分裂させることになる。それは『神様のエペソーの地方教会となってしまったのです。 こんな『地元の教会』のようなことも宗派中の最も大きい宗派であると、倪兄弟は指摘する。兄弟たちよ、これらの真理は今になって、既になくしてしまってので、あれはまだ地元の教会だよ...と大きな声で叫んでいる人は、自分が何を言っているかまったく分からないのではないか?聖書を調べて見れば、この件について、どう言う話しだったのか、少なくとも7、8時間がかかります。聖書により、神様はこの地上にある教会には、どんな教会に成るかを期待しているのか知ることができると思う。当時ソロモン王が神殿を建設する時でも 又モーセーが会幕を立てる時でも、神様の指示した通りに作らなければいけない。今日は教会を建設する時でも、聖書の言われた通りにやらなければいけない。人に引っ張られるままにやるべきではない。 ?代志上13章1ここに, ダビデ は 千人隊の長,百人隊の 長たち,すべての 隊長と合議し,2.イスラエルの全集團に向かって,言った.「もしも,このことが,あなたがたによく,私たちの 神,主の御旨から出たことなら,イスラエル全土に殘っている私たちの同胞にいっせいに使者を送ろう.彼らのうちには,放牧地のある町¿の祭司やレビ人もいる.彼らを私たちのもとに集めよう.3.私たちの神の箱を私たちのもとに持ち歸ろう. 私たちは,サウルの時代には,これを顧みなかったから. 」4.すると全集團は,そうしようと言った.すべての民がそのことを正しいと見たからである.5.そこで,ダビデは,神の箱をキルヤテ·エアリムから運ぶため,エジプトのシホルからレボ·ハマテに至るまでの全イスラエルを召集した.6.そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた.ウザとアフヨがその車を 御していた.7.そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に 載せた.ウザとアフヨがその 車を 御していた.8.ダビデと全 スラエルは,歌を歌い,立琴,十弦の琴,タンバリン ,シンバル,ラッパ を鳴らして,神の前で、力の限り喜び踊った.9.こうして彼らがキドンの打ち場まで來たとき,ウザは手を伸ばして,箱を押えた.牛がそれをひっくり返しそうになったからである.10.すると,主の怒りがウザに向かって 燃え上がり, 彼を打った. 彼が手を箱に伸べたからである.彼はその場で神の前に死んだ.11.ダビデの心は 激した.ウザによる割りこみに主が怒りを 發せられたからである.それでその場所はペレツ·ウザと呼ばれた.今日もそうである.12.その日ビデは神を恐れて言った.「私はどうして,私のところに神の箱をお運びできましょうか.」13.そこで,ダビデは箱を彼のところダビデの町には移さず,ガテ人オベデ·エドムの家にそれを 回した.14.このようにして,神の箱はオベデ·エドムの家族とともに,彼の家に三か月間とどまった.主はオベデ·エドムの家と,彼に屬するすべてのものを祝福された. ここまで読んだ多くの方が疑問をもつかもしれないか?聖書はどんな意味をするだろう?一つの事実を言いましょう;或る日ダビデ王は大きい熱心があって、イスラエルの各部族の首領、レビ人と祭司などすべての人を集めて協議し、神の箱をエルサレムまで迎え入れるため、、サウルの年間に私たちは神様にご指示と教えをお祈り求めたことがなかった。これはみんなが良いことと見て、それで、一緒に神の箱を迎えるために行くと決めた。 神の箱を迎える事について、皆が非常に慎ましい。アビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた.運ぶため、ウザとアフヨがその車を御していた。 ダビデと全イスラエルは,歌を歌い,立琴,十弦の琴,タンバリン,シンバル,ラッパ を鳴らして,神の前で、力の限り喜び踊った.こうしていた時に牛がそれをひっくり返しそうになったからである.ウザは素早く手を伸ばして,箱を押えた.すると,主の怒りがウザに向かって燃え上がり,彼を打った. 彼が手を箱に伸べたからである.彼はその場で神の前に死んだ.このような素晴らしい事柄から無残な結果となってしまった。イスラエル人は当然で十分に興ざめする。兄弟たちはどうしてこんなことになったか?ご存知でしょうか?旧約聖書の神様の掟にに基づいて、神の箱を担ぐのはレビ人しかできない。聖書の中に書いてある運ぶ方はダビデと全イスラエルが神様の教えの通りに守らなかったからである。神様が律法にはっきり書いてあって、神の箱を運ぶ時に必ず祭司による担ぎでなければならないし、又ただレビ人のみは祭司になれるのです。ダビデーは神様の律法のやり方を守らなかったためだった。ただ一切のアレンジは全部彼自身によって決めた、結局すぐこんな結果を招いた。 ?代志上15章4.そこで,ダビデは,アロンの子らとレビ人とを集めた.ケハテ族から,そのつかさウリエルと,彼の同族の者百二十人.6.メラリ族から,そのつかさアサヤと,彼の同族の者二百二十人.7.ゲルショム族から,そのつかさヨエルと,彼の同族の者百三十人.8.エリツァファン族から,そのつかさシェマヤと,彼の同族の者二百人.9.ヘブロン族から,そのつかさエリエルと,彼の同族の者八十人.10.ウジエル族から,そのつかさアミナダブと,彼の同族の者百十二人. 11.ダビデは祭司ツァドクとエブヤタル,それにレビ人たち,ウリエルとアサヤ,ヨエルとシェマヤ,エリエル,アミナダブを呼び,12.彼らに言った.「あなたがたはレビ人の家のかしらです.あなたがた自身も,あなたがたの同族の者たちも,身を聖別し,イスラエルの神,主の箱を,私がそのために定めておいた所に運び上りなさい.13.最初の時には,あなたがたがいなかったため,私たちの神,主が,私たちに怒りを發せられたのです.私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです. 神様の定めたとおりに、神の箱を担ぐのは、祭司でなければいけないし、アロンの子孫でなければならない。それだけではない、レビ人が会幕の中にいる事及び聖の宮の中のお仕え、すべてイスラエル各部族に各自の指図される責任がある。例えば、ケハテ族の子孫の責任分担・メラリ族子孫の責任分担・ゲルション族子孫の責任分担等、これらの説明は民数記4章に書いてある。 レビ人であっても勝手に動く訳ができない、神様の命令の通りにやらなければ、神様の律法に違反することになります。あなたたちが、前にこの神の箱を担がなかったため、定例によってヤハウェの私たちの神にお祈り求める必要があって、私たちその規則を守らなかったせいで、主の怒りがウザに向かって燃え上がり,彼を打った.彼が手を箱に伸べたからである.彼はその場で神の前に死んだ. 大勢の人はウザーに対して撃たれて殺されたについて、自分でちょっと答えを盛り上げてることになる。なにかしら、聖書によって聖書を解釈する?それによって今こそ聖書によって聖書の内容を解釈すできである。以前は撃たれて死んだことに遭って、その原因は、神様の掟に従っていなかったためであった。自分で勝手に決め付けをしたのである、今日私たちは教会を建てるのに、同ように自分の思うとおりに勝手に動くではないか? ?代志上15章14。そこで,祭司たちとレビ人たちは,イスラエルの神,主の箱を運び上るために身を聖別した.15.そして, レビ 族は, モ ― セ が 主のことばに 從って 命じたとおり,神の 箱をにない 棒で肩にかついだ.次に賛美歌の歌も決まっている担当者に歌えを指定するように。 と言う理由があって、神様へ敬拜賛美の時でも勝手にわがままの意思で、行うべきではない。恐らく御霊と共にいると思うが、大間違いを犯すかもしれない。何しろ、掟の通りを守って、動くべきである。 ?代志上15章16.ここに,ダビデはレビ人のつかさたちに,彼らの同族の者たちを十弦の琴,立琴,シンバルなどの 樂器を使う歌うたいとして立て,喜びの聲をあげて歌わせるよう命じた. ダビデーはこの時にまだ謡うか?ダビデーは時にはすぐやたらに謡ってかねて、元々、彼自分の琴技は、旨いのである。貴方達自身は再び歴代の志を勉強して、何時になれば、痲服を着用するか?説明してあるのではないか?モーセからイスラエル人への教え通りに基づいて、神の箱を担がなければならない。そうするとばっちりと歩くことができることを約束される。しかしなぜ非利士人が牛車で神の箱を差し戻されて来ることができると話すか?兄弟たちは、非利士人は異邦の民で、彼らはウシの引く車で神の箱を差し戻して来ても、構わないことです。しかしダビレーは異邦の民に見習って、同様にウシの引く車で神の箱を運ぶとは、許されない。その為、神様はウザーを撃って殺された。大勢の人々は今日で神の箱を担ぐ時でも、神様の命令の通りを守らなかったので、教会光景の混乱の原因の一つで、皆がなにをやっているのか分らないからだ。 士師記21:25そのころ,イスラエルには王がなく,めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた. 喜んでこんなにすぐこんなにして、喜んであんなにすぐあんなにして、結局神様の教会は四分五裂するほどされて、ひどく乱れている。あんまり説明すると長すぎるので、機会があれば、再び説明できるでしょう。しかし 確実に間違いない事は、神様は自分の欲しくないものなら、貴方がいくら熱心されても、喜ばれることができないだろう。だから神様に仕える為に頑張っていると思うが、根本的に神様の喜ぶことを知らないし、神様を認識していないので、何をやっていても意味がないのではないか?或る日、あなたは主に従ったことを話したが、ところで主は:『あなたは私に従うことではなく、あなたは根本的に自分で何をやっているか自分さえ知らないのです。 主に従うことには、最も重要なことは、神様の言を認識できることである。 ?代志上13章にて、ダビデーは神様の御心を存じませんでしたが、15章になって、ウザー撃って殺された事を認識でき、モーセーの教えた通りに守らなかったせいで、不幸な結果が生じたと理解できた。もし私たちであれば、私たちの考えによれば、恐らく、その日の交通事故、牛の問題、それのひづめがしっかりしていないなど、多分すべての人がそういう考えができてしまうかもしれないが、もし貴方であれば、このような事の起こり原因について、、神様の定めた掟に従わなかったことを考えたことがありますか? 兄弟たちよ、もし貴方が、今日不運で、問題起こった、あなたは神様の前にきて、その原因を探るでしょうか?どうしてこうなったのかと勇敢に神の前で、教えてくださるようにおいのりをしなければ、霊のある人間になれない。 サルデス教会による教会真理の回復につき、これは16世紀から始まった。サルデス教会というのは、、神の真理を回復される教会と歌っていたが、、その教会の回復ぶりは殆ど間違いだらけだった。だからルテル教会から、信義教会・バプテスマ教会・、長老教会等は今まで、これら教会の信仰光景と真理に対する認識が非常に乏しい。サルデスの行い信仰は、はるかにテァテラ教会に追いつかない。 テアテラは『香りの祭祀』偶像を拝みすることを除いて、又真理に対する欠陥ヤ間違いがある以外、テアテラ教会は神に或いは人に対して、雄大な愛心があった、彼女は善行をし、多くの良い行いを作った。それでもサルデス教会は、全く神を認識していなくて、善行を行わなかった。善行行為のない教会と言われた。だから今日になって、サルデス教会の内部組織はただめちゃめちゃで、真理がないだけではなく、善行もなかった。ただ教会内部の闘争のみとあったということによって、主は言われた; この教会はその外に聖品階級のような奇奇怪怪の行いが創造され、サルデス教会には、偶像以外、カトリックのすべての欠点を持っていて大差がありませんでした。カトリック教会には真理がないというが、サルギス教会にもなかった。しかし、少なくともカトリック教にはまだ人助けがあって、サルギス教会には全く善行がなかった。サルデスは七つの教会中で、神様に最も物凄く責められた。だから神様はサルデス教会にある勝利を得る者に対して、慎しみなさいと警告した。この教会は始まりに確かに真理を回復しようとしたが、ところでまさか、あっという間に、冬に入る寸前の紅葉のように、僅かの間の輝きしかなかった。 このまま十八世紀に突入され、神様はサルデス教会の中にある神の福音真理に従う一群れの僕を興じその名は『兄弟会』と呼ばれる。『兄弟会』には、神の真理があって、神様を認識していることを除いても、教会の光景も非常によくて、フィラデルフィヤと言う六つ目の教会である。ギリシャ語の意味が『兄弟相思相愛』である。アメリカフィラデルフィアのあの字だけで、PIJiladelphia。この教会はそのとおり不思議で、非常に恵のある兄弟教会である。『兄弟教会は』歴史上において非常に重要です。マーチンルテルーが教会に1冊公開の聖書を与えたが、しかしこの聖書は意味を読んでも分らない、その上にサルデス教会はテアテラ教会と同じように聖書を読むことがなく、ただ本棚に聖書をほこりに載せるだけで、今になっても分かるようにサルデス教会が神様を認識していなかった最も大きな原因は、聖書を読まなかった事とも言える。 フィラデルフィア教会であれば、まったく異なるが、この教会には愛が有るだけではなく、あるその上に、この教会にすべては、聖書の真理が、全部『兄弟会によって』、解明させられました。だから『兄弟会』はマーチンルテルーの後に、再び聖徒に1冊の開いた解明された聖書を与えてた。信者の家では、聖書が読まれるし、聖書によって黙示された説明も明らかになった。七つの教会の中に、ただフィラデルフィア教会だけは、初めから終わりまで神様に称賛された。。神様はこの教会に言われたように彼達人々の手に冠を持たせるようと思われる聖書の御言葉である; 黙示録3;11わたしは,すぐに來る.あなたの冠をだれにも奪われないように,あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい. フィラデルフィア教会には最も大きな特長は愛があり、そして真理があるだけではない。その真理に伴っていたのは、行為である。それは神への愛の表現とも言えようではないか?クリスチャンとしては、主を愛する第一の表現行為は、教会の兄弟姉妹を愛することだと言える。 ヨハネ福音書21章15.イエスが,死人の中からよみがえってから,弟子たちにご自分を現わされたのは,すでにこれで 三度目である.16.イエスは再び彼に言われた.「ヨハネ の 子シモン.あなたはわたしを愛しますか. 」ペテロはイエスに言った.「はい.主よ.私があなたを愛することは,あなたがご存じです.」イエスは彼に言われた.「わたしの羊を牧しなさい.」17.イエスは 三度 ペテロに言われた.「ヨハネの子 シモン .あなたはわたしを愛しますか. 」 ペテロ は,イエス が三度「あなたはわたしを 愛しますか.」と 言われたので, 心を痛めてイエスに言った.「主よ.あなたはいっさいのことをご存じです. あなたは,私があなたを 愛することを知っておいでになります. 」イエス は彼に言われた.「わたしの羊を 飼いなさい. ヨハネ一書3;23神の命令とは,私たちが御子イエス·キリストの御名を信じ,キリストが命じられたとおりに,私たちが 互いに愛し合うことです. ヨハネ一書四章:7.愛する 者たち. 私たちは,互いに 愛し 合いましょう. 愛は 神から 出ているのです. 愛のある 者はみな 神から 生まれ, 神を 知っています.8.愛のない 者に, 神はわかりません.なぜなら 神は 愛だからです. ヨハネ一書四章:19.私たちは愛しています.神がまず私たちを愛してくださったからです.20.神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら,その人は僞り者です.目に見える兄弟を愛していない者に,目に見えない神を愛することはできません.21.神を愛する者は,兄弟をも愛すべきです.私たちはこの命令をキリストから受けています. 命令と言えば、、交渉する事が出来ないし、相談さえもできない。フィラデルフィア教会での兄弟の間に愛あるかないかと判断する方法は、この教会が神様を愛している、神様を愛する表しであれば、教会の兄弟姉妹を愛することに当てはまる。この教会では、兄弟の短所に対し寛容であり、手落ちした罪を裁かない。特に弱い肢体には、或いは食べ物のない貧乏人が教会にお見えになると、彼らへの世話を捧げることになる。、もしかしたら世間には文句をいわれるかもしれないが、仮に主の中にも文句がでれば、其れは神を愛を愛していない。目に見える兄弟を愛していない者に,目に見えない神を愛することはできません.フィラデルフィア教会には、神様の前に完ぺきである外に真理があって、神を愛することによって、、それ故に神様は、恵を賜って、聖書の真理を大いに兄弟会に交付されたのです。 神様による二千年間教会歴史の発展の中に唯スミルナ教会とフィラデルフィアの教会には神様からの責めがない。次はエペソ教会で、非難されるたった一つの事の内容は エペソ教会の寿命がおよそでただ数十年の時間で、終ってしまった。スミルナ教会は前後約300年に達し、ベルガモ教会も約数十年しかない。引き続いてテアテラ教会に入り、教会がそれから1千年の暗い時期に突入した。テアテラ教会は聖書の開きに施錠したことによって、あの時期に宣教師と神父を除いて、他のすべての人が聖書を読むことがゆるされなかった。テアテラ教会は聖書を封鎖し、人々に聖書が読まれたことを恐れルカらである。もし聖書をよんで、信仰事実を分かったら、罪の贖罪券の嘘がばれてしまう。 サルデス教会まで、教会はやっとハンドルを離して聖書が打開された、マーチンルテルーの宗教改革により、すべての人に全部聖書を読ませることができて、今日まで、聖書は地上において悪魔と神の間に最も熾烈な戦いである。サルデス時代のマーチンルテルーは聖書を開いて、真理を回復してから、約300年を経過した後に、フィラデルフィア教会の時代に入ることになった。マーチンルテルーは皆に聖書を公開で読ませたが、皆が聖書を読んでも分からない。その後の兄弟会の兄弟達の聖書解明によって、聖書にあるダニエル書の預言や、ヨハネの黙示録の中にある十個の国と敵キリストを記載される内容を一々解明された。 兄弟会には、愛と聖書知識があって、神様の教えを深く認識しているし、教会にも多大な影響を与えた。そして、最後の第七つの教会は、ラォデキヤと言い、この文字の意味は『衆論』です。執事会委員の選出によって、皆の意見を代表する。結果として、衆論は教会に勤めている牧師に異論を唱えたりにして、これも教会全体のご意見にする執事会である。この多数による選出される委員によって、教会の働きを決めるのです。数人の委員によって、教会全体を動かすのは教会の光景が一層深刻な光景に落ちたのです。 ラォデキヤ教会の特点は、冷たくもなく,熱くもない。あなたが教会に行って、見てごらん、イエスの看板を美しくお見せするため飾ってあり、格好が好いと思われますが、主イエスを信者自身の人生の装飾品にされてしまう。彼は自分でクリスチャンであると自称し、そうである様に見えるが、荘でもないように見える。何しろ彼は冷たくもなく,熱くもない。「だから神様はラォデキヤ教会に ラォデキヤ教会は兄弟会から墜落されたのです。 ラォデキヤ教会の中にはニコライ派のような人が居ないし、聖品階級という法王、司教、神父、牧師のような問題もなく、皆全員は兄弟姉妹である。「ニコ」の意味は、制圧であり、「ライ」は大衆で、ギリシャ語では、大衆を管理制圧する意味ですが、ニコライ派という意味は、少人数の階級制の人によって、教会の兄弟姉妹を動かし、制圧する。これは非常に厳重な問題で、主イエスの救い福音及びクリスチャンの信者生命に多大な影響を与える。フィラデルフィアの教会から、聖品階級のような制度もなく、ラォデキヤ教会にもありませんが、ラォデキヤ教会の最も物凄い所には、知識があるということである。 21 兄弟会より堕ちて来たラォデキヤ教会には、愛がないが、沢山の知識を擁するのである。ラォデキヤ教会へ届いた神からのメッセージは次の通りになる。 黙示録三章17.あなたは,自分は富んでいる,豊かになった,乏しいものは何もないと言って,實は自分がみじめで,哀れで,貧しくて,盲目で,裸の者であることを知らない. 20世紀の初めに中国にある神の僕ー倪柝声兄弟により、創設された地元教会の光景が非常に好いと言える。それが兄弟会の延長だし、倪兄弟も兄弟会の一員に属した事があるとも言える。地元教会の中で、同じように、お互いに兄弟と称することだけで、別の呼び合う方がない。こんな教会のよい光景は、長い時期まで持つことができなかった。地元教会が今日になって、既にラォデキヤ教会と化してしまった。 主は仰せになった「わたしは,あなたの行ないを知っている.あなたは,生きているとされているが,實は死んでいる. 又テアテラ教会のようにマリアを拝んでいる。昔、ある教会に行って、その日に母の日だった。牧師は礼拝で母親の偉大を当日のメッセージとして述べましたが、安息日では、聖書の言葉を述べるべきだが母親の偉大さを述べることについて、皆がなんともないと思うかもしれないが、私にして見れば、まったく不思議を感じる。私たちは神様の幻を述べるのも、聖書の言を中心に信者達に神の義を供給しなければならない。神の真理を知らなくて、どうやって神の僕となれるだろう?。今の教会の真理に対する認識がは非常に貧しくて、真理がないのである。サルデス教会の光景から、ラォデキヤ教会にまで、非常に悲惨で、執事会の選び出しによって、、牧師は何をやろうと思っても、一々執事会の同意を求める。ラォデキヤ教会は最も神の言に怠慢で、盲目で何も見えない。裸の者であることと主に言われる。 黙示録3章17.あなたは, 自分は富んでいる, 豊かになった, 乏しいものは 何もないと言って, 實は 自分がみじめで, 哀れで, 貧しくて, 盲目で, 裸の 者であることを知らない. 主はその御使いを遣わして,七つの教会の事を僕のヨハネにお告げになった。そして七つの教会あての手紙を書き送った内容は正に地球上でこの二千年間において、ヘ會の発展歴史を予言されたものであった。私たちは目の前に見えた教会の発展歴史も完全にヨハネの黙示録の予言通りに成っていた。 だからエペソ教会が終えて、引き続いてースミナ教会となり、その後のペルガモ教会も終えてしまった。そして、テアテラ教会が今日まで存在した、サルデス教会も、テアテラ教会のように、主の再来に亘る。フィラデルフィア教会、ラォデキヤ教会もこの世の終焉までまで残る。この四つ並びの教会は、すべて世界の終わりまで至る。ここで、表明しなければいけないのは、これが倪柝声兄弟が兄弟会の聖書解明の中から要点をコピーして、出したものです。私の私的意見ではない。神様に私たちを憐れんで頂くようにお祈り求めます。 ヨハネの黙示録三章18節わたしはあなたに忠告する.豊かな者となるために,火で精練された金をわたしから買いなさい.また,あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい.また,目が見えるようになるため,目に塗る目藥を買いなさい.『耳のある者は諸ヘ會に言われることを聞きなさい.』
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