
読み方のお導きー四
誰か忠誠心や見識のある神様の僕でしょうか?
ヨハネの黙示録の第二十二章に、「しかり.わたしはすぐに來る.」という言葉が3回も言われた。
それではヨハネの黙示録の一部始終の中に「しかり.わたしはすぐに來る.」と言う言葉は何回ぐらいお御喋たでしょうか?主は何回も何回も言われたのです。
そのうちになって、私たちが永世に入ることができれば、振り返って見て、今でも主が『すぐ来ると感じるだろうか?あなたは必ず『アーメン』をするだろう。主は言われるすべての言が真実でかつ正確であり、間違いなく残される時間がいくつでもありません。小さい時によく考えていたが、50歳になるまでどれ位長い歳月が要するでしょうね?と思ったことがありますが、振り返ってみるとあっという間に五十歳を超えてしまった。
大学の時代のことですが、、ガールフレンドを追い求めたが、つい先ほどのことだと感じた。今でも若い時の気持ちを持ちますが、年齢的から見れば、既に衰えてしまいました。髪の毛は、いつの間にか白髪が見え始めた。恐らく慣れない私であるが、引き続き、次に老眼となり、髪の毛も段々薄くなって、歯も揺れ始めるようになるではないか?あなたにして振り返ってみれば、衰えが早いか?遅いか?勿論早いと思います。所で、考えているうちにあっという間に時間切れになる。兄弟たち;主は言われた、私はすぐ来る。
マタイ福音書二十四章44.だから,あなたがたも用心していなさい.なぜなら,人の子は,思いがけない時に來るのですから.45.主人から,その家のしもべたちを任されて,食事時には彼らに食事をきちんと與えるような忠實な思慮深いしもべとは,いったいだれでしょうか.46.主人が歸って來たときに,そのようにしているのを見られるしもべは幸いです.47.まことに,あなたがたに告げます.その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります.48.ところが,それが惡いしもべで,『主人はまだまだ歸るまい.』と心の中で思い,49.その仲間を打ちたたき,酒飮みたちと飮んだり食べたりし始めていると,50.そのしもべの主人は,思いがけない日の思わぬ時間に歸って來ます.51.そして,彼をきびしく罰して,その報いを僞善者たちと同じにするに違いありません.しもべはそこで泣いて齒ぎしりするのです.
「ところが,それが惡いしもべで,『主人はまだまだ歸るまい.』と心の中で思い,」誰か悪い僕でしょうか?即ち心の中で思う「『主人はまだまだ歸るまい.』というしもべである。
私は主に従って、長い時期にわたって、主がまだまだ来るまいと思った。毎回 アメリカのダビデ・キャンプ地で、又アメリカによるイスラエルとアラビアの平和協議を行うたびに、合意ができなかったため、主がまだ来るまいと思った。何しろアメリカの仲介工作によっての平和条約が絶対に成功しないと聖書が預言してある。
ただし もしもヨーロッパ連合はイスラエルとアラビア連盟の平和会議を買って出れば、間違いなく成功するであろう。そして、一旦平和条約を結んで、イスラエルが、聖の宮を再建に終えれば、すぐでも主が再来であろう。
聖書の預言によると「一週の間,敵キリストは多くの者と堅い契約を結び,半週の間,いけにえとささげ物とをやめさせる.」この敵キリストは必ずヨーロッパ連合から出てくるが、アメリカから出ることではない。だからアメリカが平和条約を主催すれば、まだ時間的に余裕があって、ゆっくりのんびりしていられると思うからである。
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悪い僕は誰ですか?主は悪い僕に対する定義;マタイ福音書章48.ところが,それが惡いしもべで,『主人はまだまだ歸るまい.』と心の中で思い,主は私はすぐに来ます」と言われる。
しかし悪い僕の心の考えでも、『主人はまだまだ歸るまい.』
誰か主が必ずすぐ来ると思いますか?誰か主がまだまだ帰るまい」と考えますか?兄弟たちよ;これは良い忠心のある僕と悪い僕に対する定義である。
なぜ今あなたの暮らしに困難であるか?ただ一つの原因がある、即ちあなたの心で、私の主人が必ずまだまだ帰るまいとおもうからである。この間に牧師が台北に行き、貴方も付いて行き、牧師が台中まで行けば、貴方も台中まで付いていきました、まったく面影のようですが、唯2〜3週間も経てば、この付いていく計画も中途半端で、中止になってしまった。世間の苦痛を追い求めることも段々忘れかけていた。改めて、心の中で主はまだまだ来るまいと思い始めるであろう。
何の関係ある?しかし主はどうして繰り返し言われる?私はすぐに来ます」
しかしまだ来るまいという言葉を誰か言ったでしょう?勿論サタンは悪い僕の心で、囁くということである。悪い僕もそれは自分の意見だと思って、すんなり思い込んだ。
サタンは言った;主はすぐ来ると言っても、そんなに早く来ないのよと常に我々の心で、囁くのである。あなたであれば、急ぐ必要がない;まだ若いし、非常に素晴らしい将来がある。70才になってから、主を愛すればまだ間に合うとサタンが貴方の心の中で囁くことを貴方が全面的に飲み込んだのである。
この世界で、老いた父、老いた母の場合は人生を随分経験してこられたが、どんな美味しい物でも同じように食べことがあったのですが、私の場合であれば、これからですよ、主を愛しろや朝のお祈り会に参加しろと言われても、守れるわけがないでしょう。もし守れるとしたら、頭には問題があると思われるでしょう?70歳になってから、まだ間に合いますよと思い込む。
問題は、あなたは70歳まで生きられるかどうかですよ。例えば、主はまだ来ていなくても、貴方が七十歳まで生きられる保証が一つもありません。言い張る必要がない、例えば六十九歳まで生きられていても、七十歳まで生きられるか誰でも保証できるがずがない。過ぎ去ったことですが、台湾政府の辞令によって、蒋介石の孫ー蒋孝武氏に中央ラジオ放送株式会社のCEO就任と発表された日の朝のことでしたが、蒋孝武氏は病院へ身体検査の為に行って、病気に入院したわけではなかったが翌日になって、看護師は彼の病室に入り、彼が既に息が止まった。これは昇進の辞令を受け取った日のことでした。
人間にはそれぞれの運命があり、一概には言えませんが、辞令発表された日で、まだ就任されていない内に死んでしまうなんて、一日のCEOにもなっていなかったのではないか?
すべての事が神によって握られている。六十九歳まで生きられていても、七十歳まで生きられるか?誰でも分からない。人間には一生の歳月が決められているが、自慢すべきではない。
最も受け難いのは人にどんな人生計画を立てるかと聞く度に、その戻ってきた言葉を中々受け取れ難い。私は最も知っている『翌日』とは、人の手に握られることではなく、神によるものですので、自分がどのように人生計画をたてられるでしょうか?毎度、人が自分の人生計画を大げさに言うのを聞く途端に、誰か明日の事を予言できるであろう?明日には人生がどんな変わるか?何か起こるか生きるか?死ぬか?確かに誰でも分からない。
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『もしもあの悪い僕の心で囁けば』『もしもと言うことであれば、』『例えば、いくつか愚かなものが心の中で囁け、このような人であれば、この言葉を口に出す訳がないはずですが、口に出したら、主との説と正反対となるからである。
主は言われた、私がすぐ来る。私たちは心の中で主がまだまだ来るまいと思う。のんびり生活していても、私が何をやろうとしても、誰も分かるまい、主がまだまだ来るまいと自分には囁く。もう一度読みましょう;
マタイ福音書二十四章48.ところが,それが惡いしもべで,『主人はまだまだ歸るまい.』と心の中で思い,49.その仲間を打ちたたき,酒飮みたちと飮んだり食べたりし始めていると,
今日私達は主に仕える兄弟姉妹の間に、「その仲間を打ちたたき」という意味はなんでしょうか?即ち表面が兄弟姉妹だが、責任感がないー「その仲間を打ちたたき」、兄弟同士とは、一緒に主に仕える兄弟で、主に仕える日々の中で、我々はどういう態度を取るのか?又「酒飮みたちと飮んだり食べたりし始めていると,」惚れ惚れと楽に遊んで、暮らしの行いが主に仕えるものではない。
又次に50.そのしもべの主人は,思いがけない日の思わぬ時間に歸って來ます.51.そして,彼をきびしく罰して,その報いを僞善者たちと同じにするに違いありません.しもべはそこで泣いて齒ぎしりするのです.
兄弟達よ、私達は嘘好きな人間ですので、私たちは常に交わすためにいくつかの作り言葉や形容詞を用いる。ただ聖書には形容詞がないし、聖書の言はすべて誠である。私達は常に子供にて言う:『しっかりしろ、大人しくならなければ、君の脚を折れてやると脅かして言った。しかしあなたは本当に相手の脚を折れてやれる?所で;主は言えば、必ず足を折れてやると言う事になる。主は聖書の言を必ず成られる。その矢先は、「彼をきびしく罰して,」と言う文字を理解できれば、早くも主の誡めに従った方が宜しいではないか。
「彼をきびしく罰して,」英語の表現で、[CUT IN PIECES],もっと悲惨で貴方を細切りに切ることにする。豚肉細切りを炒めるようにされる。主の御使によって粉々に切りつぶされるようになるだろう。
主の言われる事を信ずるでしょうか?下記のように「その報いを僞善者たちと同じにするに違いありません」。どうして彼への報いを僞善者たちと同じにするに違いありません。彼の心で主がまだ来るまいと思っていたのである。口の中で主がすぐ来ると言ったので、この様な人間であれば、僞善者どじょうである。
主はその通りに言われた;終わりの日には、このような人間が多く出てくる。しかも殆どこのような人間ばかりとなって、もし、予言した事を現実にならなければ、聖書の預言が嘘になる。私たちの中にこのような人間がいませんか?私を含めて、恐らくそのような人間だったかもしれない。人様ばかりを見てはいけなくて、聖書を読むのに人様の為に読むのか?自分にとって、ちっとも意義がないのか?自分の為に聖書を読むべきではないか?聖書を読むたびに自分自身が義の人だと思わないように反省の気持ちを持つべきである。小さい時に映画を観賞する時、、最も心配していた事が悪玉と善玉のことです。自分自身を善玉であると感じるから。アメリカ・カウーボイ西部劇のドラマのように、インテイアン人を殺す場面を見ると、ラッパを吹き始めれば、満場一致で、拍手を送る。インテイアン人が悪玉であるでしょうか?毎回、家の中に入ると、もしも家族達の皆がテレビドラマを見ていれば、私は必ず聞きます;誰か善玉ですか?私が心配するのは.善玉の事ですが、私が善玉の側に就く。なぜかというと、自分自身は善玉だったと思うからである。
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後になって、イエス・キリストを信ずるようになり、自分自身は悪玉だけではなく、極悪の人間だと思い始めた。自分は悪玉だったと分かったのは、主の照しによったので、さもなければ、いつも自分自身は善玉だと信じ込む。
暗闇の鳥のカラスが自分の翼が非常に綺麗と思い込み、照らされてから、初めて自分自身が醜いやつだと分かるようになり、照らされなければ他人すべてがカラスだと思い込みである。
ですから、自分を義人だと思う込んだ人であれば、特に目を覚まさなければならない。主にそれこそ偽善者だと映される。
エペソ人への手紙四章15.むしろ,愛をもって眞理を語り,あらゆる点において成長し,かしらなるキリストに達することができるためなのです.
「かしらなるキリストに達することができるためなのです.」と言うのは、主のお召しがあるこそ、言うべきであって、なければ黙り込むべきである。
本音を言うか言わないか?ボスに主権がある。もしボスは私たちに真実を言いなさいと言われれば、私達はすぐでも話さなければいけない。それは避けて通ることができないが、そんなに易しいものではない。
もう一度読みましょう;
マタイ福音書24章51.そして,彼をきびしく罰して,その報いを僞善者たちと同じにするに違いありません.しもべはそこで泣いて齒ぎしりするのです.
以前はこの『悲しみ泣いて歯ぎしり』していることを読む時、全部形容詞だと甘く考えであったが、実際は、そういうことではない。聖書の言であれば、文字の通りに本当の悲しみ泣いて歯ぎしりの悔しさと成る。
一生でこんなに多く辛いことを経験してきたが、まだ「悲しみ泣いて歯ぎしり」までの苦痛とは言えない。又このような体験を持つ人でも、そんなにいないのではないか?しかしこの言葉の本当の意味には、『必要的に悲しみ泣いて歯ぎしりをする」それは本当に千年の間を悲しみ泣いて歯ぎしりで過ごすことになる。特にこの言葉の意味は、クリスチャンに向けて言われたのです。これからは、永世の中にどれ位の人が勝者になるか?その輝かしい笑顔だけ見れば、分かるだろう。
歯の部分が噛み壊される人であれば、必ず勝者ではない。悲しみ泣いて歯ぎしりを千年の間にもすれば、歯の方が綺麗に残されるはずがないであろう。なぜか恥知らずというのか?そういう言葉には特に意味がありますが、即ち「歯のない恥知らずの奴というので、千年の間に歯が磨き、磨き、磨がかれて、1本も残らない。主の言であれば、すべて真実で、現実となる。悲しみ泣いて歯ぎしりをすれば、間違いなく、そういう面になる。しかし歯がなくなるまで磨くかどうか?その時にならないと分からない。それは私が作り話しである。
ここまで聖書を真面目に読んできたので、皆様に強い信仰の道を教えなければいけない。
マタイ福音書二十四章44.だから,あなたがたも用心していなさい.なぜなら,人の子は,思いがけない時に來るのですから.
何を用意する?結婚?コンサート?それとも主を迎える支度をする?結婚とは、一人の伴侶を求めて、一緒に主に仕える道を歩く。皆で共に主の福音を述べ伝える為に主の再来の用意をしますが、共同で、事業を起こすために助け合いだけではないように、「なぜなら,主は,思いがけない時に來るのである.」
マタイ福音書24章45主人から,その家のしもべたちを任されて,食事時には彼らに食事をきちんと與えるような忠實な思慮深いしもべとは,いったい誰でしょうか.
「糧はきちんと彼らにお與えるような忠誠心や見識のある神様の僕とは,いったい誰でしょうか.」私達は朝のお祈り会で、教会の兄弟姉妹たちが順番にそれぞれの信仰体験やメッセージを明かしてもらうが、互いに分かち合って、主は再来の時、貴方に皆に証しをなさったかと聞かれるでしょう。これは「糧はきちんと彼らにお與えるような忠實かつ思慮深い僕とは,いったい誰でしょうかと言う意味です。
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常に何を分かち合うかと兄弟達の交流を聞いた事がありますが、なぜあなた自身だけには、分かち合おうようとしない?人のそれぞれには主の為に証しができるはずではないか?
エリヤは頼ったあの貧乏な未亡人でも、油が1本だけ残っているものではないか?主の御言を聞いてから、どうやら喉が過ぎれば熱さを忘れたでしょう。あの未亡人には残る1本の油あって、量が少ないがかめの粉は盡きず,つぼの油はなくならなかった.
列王記17章14.イスラエルの神,主が,こう仰せられるからです.『主が地の上に雨を降らせる日までは,そのかめの粉は盡きず,そのつぼの油はなくならない. 』15彼女は 行って,エリヤのことばのとおりにした.彼女と彼,および彼女の家族も,長い間それを食べた.16エリヤを通して言われた主のことばのとおり,
未亡人の彼女が長い間それを食べたが、かめの粉は盡きず,つぼの油はなくならなかった。私は毎朝の祈り会で、分かち合う証しが、霊の糧がすぐ切れるのではないか?と思った。しかし聖書の言に溢れる心が、不思議のようにこのつぼの油がなくならない。しかし5年間も使い果たさないことは、誰か思うだろう?本当にこんなことによって、今日は空っぽのようだが、翌日になって、主のお導きによって、又御霊の感動に溢れる証しや御言葉の元気付けを新しい体験と泉であって、常にかめの粉は盡きず,つぼの油はなくならなかった。
それでは主は問われた。主人から, その家のしもべたちを任されて,食事時に彼らに霊の糧をきちんと與えるような忠實な思慮深いしもべとは,いったい誰でしょうか.よくお祈り会の予定表に名前のリストがあって、その上に日にちが予定される。それは兄弟達に霊の糧をきちんと與えるような忠誠心や見識のある神様の僕でしょう?勝利を得る候補者の名前リストでもある。
主はこれを聞いて、「誰でしょうか?」。明確に言えば、誰か違う?今食事時には彼らに霊の糧をきちんと與えるような忠實な思慮深い人こそ、将来彼らは神とキリストとの祭司となり,キリストと共に千年の間、支配する。そうでない人なら、機会がないとはっきり言える。
下記の聖書を読みましょう:
マタイ福音書二十四章45.主人から,その家のしもべたちを任されて,食事時には彼らに食事をきちんと與えるような忠實な思慮深いしもべとは,いったい誰でしょうか.
私たちは負債を持っているか?借りは完済すべきであろう?もし自分の証を隠れて、又主からの照らしがあるが、黙るままで、それこそ兄弟達に借りがあるといえるでしょう。
私たちは主から賜った恵みを言わなければいけないが、主はくださった恵みがないでしょうか?もしあれば、どうして言わないでしょうか?食事時には彼らに食事をきちんと與えるような忠實な思慮深い人になりきれないか?兄弟達はなぜヨハネの黙示録をよく勉強しなければいけないのか?主がすぐ来られるから。
ヨハネの黙示録は黙示されるこれから起こるべきことは、まだおこっていないのですが、近いうちに見える。ヨハネの黙示録によって、黙示される預言を聖徒らにお知らせなければならない。さもないと兄弟達にはなんとなく何か借りが出来てしまうものではないか?今日はお借りを返しにくる為なのである。下記の聖書を見ましょう。
マタイ福音書24章主人が歸って 來たときに,そのようにしているのを 見られるしもべは幸いです.
聖安息日の分かち合いは七日間に1回があって、朝のお祈り会は、日々があり、機会も多い。出来るだけ証しのチャンスを見逃さないよう私はよく人々を励ましてあるが。朝のお祈り会は、勝利を得る者の速攻クラスでもある。主は正しく裁き、真実の神である。貴方の勇気のある証しを見て、必ず記念冊に一臂を入れられる。主は神の家にある裁きの時に、主の戒めを守る人や、誰か最も食事時に彼らに食事をきちんと與えるような忠實な思慮深いしもべを裁きだすであろう。そのうちに後悔しない様に、誰か言うが、もしもっと早く分かれば、朝の祈り会に出席するのにと言う人がいる。それは恐らくもう遅いでしょう。今まで、兄弟達と分かち合った事のない者であれば、又自分のつぼ瓶に油がないと思う人、そのお恐れ入る日になると、、必ずそこで泣いて齒ぎしりをするのである。
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マタイ福音書24章47.まことに,あなたがたに告げます.その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります.
彼に自分の全財産を任せるようになりますというのは、何でしょうか?この一切のものがすべて主のもので、主からまかせるようになると言うことが、どれほど栄光のあることである。この言葉を本当かどうか?どう思うでしょうか?今だにまだ間に合うから、キリストの国の為に頑張る価値があるからである。
「まことに,あなたがたに告げます.」という主の言われるこの言葉が本当ですか?これこそ主は言われる言葉で、全く真実です。しかし どうして『実に』を使うかしら?まさか主の言われる他の言葉は実在ではなかろうか?そうではなく、言われる言葉が本当です。しかしなぜここで「まことに,あなたがたに告げます.」を表現するのか?それはこの言葉を特別に強める為で、もし実現できなければ、主の誉の栄光を無くすことになる。
聖書の中にこのような言葉がある場合、特に注意深くするべきで、それは必ず実現されるだけではなく、大事である。まことに,あなたがたに告げます.その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります.
コリント人への手紙第二四章7.今の時の輕い患難は,私たちのうちにいて,測り知れない,重い永遠の榮光をもたらすからです.
「まことに,あなたがたに告げます.その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります.」もし3年だけで、物足りないが、あれは「永遠」の栄光である。
コリント人への手紙第一2章9まさしく,聖書に 書いてあるとおりです.「目が 見たことのないもの,耳が 聞いたことのないもの, そして, 人の心に思い 浮んだことのないもの. 神を愛る者のために,神の備えてくださったものは, みなそうである.」
私達にある現在の有限の知識を想像してもつかないほど、主から賜ってくださる事業はどれほど素晴らしいことだろうか?
音楽の上達の為にどれほど努力を頑張る貴方なら、勝利を得る道の為にもっとそれ以上の努力を払うべきではないか?兄弟たち、主に仕える私になるように頑張ってください。
「マタイ福音書24章ところが,それが惡いしもべで,『主人はまだまだ歸るまい.』と心の中で囁き,」
先日牧師様は私達にヨハネの黙示録二十二章を分かち合ってくださった。主はこの章の中に3回も「私はすぐ来ると言われたが、マタイ福音書の中にある悪い僕が何を言ったのか?主はすぐ来るまいと言ったのです。」
この悪い僕の言った言葉は創世記にある撒但の言った事とまったく同様である。創世記3:1さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
サタンの意念を貴方の心の中に惑わし、そした、主がすぐくるまい、ゆっくりしなさいと囁かれる。
のんびり寝なさい・安心して休みなさい・まだ多くの明日があるので。七十歳になってから主を愛することになっても、まだ間に合うのよ。その時に主の為に殉道者にもなれば、高層ビルから飛び降りて、すぐでも勝利を得ることができると思う人が多いかもしれない。まさか地震が起こると、受難者となり、七十歳まで生き伸びる事が出来なくなった。命を取りやめられた。
主は言われた「私はすぐ来る」悪い僕が言う、すぐ来るまい」。貴方はどう思う?すぐ来ると思うか?しかし信じがたい話ですが、もし本当にそう思うなら、今ではそんなのんびり居られないでしょう?主はすぐ来ると思うとびっくりするほど怖いのです。
私は貴方達に驚かさせるつもりではない。この油を徹底的に漬けなければいけない、漬け終われば、油が下さっていないと言わないで済むが、そして貴方達からの借りた油がここで返した、ご存知でしょうか?それで領収書をもらわないとならないのです。
もしそれが惡いしもべで,『主人はまだまだ歸るまい.』と心の中で思い。実は大勢のクリスチャンの心でそう思っている「主はまだ来るまい、のんびりする余裕がある。
マタイ福音書二十四章49.その仲間を打ちたたき,酒飮みたちと飮んだり食べたりし始めていると,50.そのしもべの主人は,思いがけない日の思わぬ時間に歸って來ます.
そのし主は言われた,思いがけない日の思わぬ時間に歸って來ます.主は何年かを言っていない、私たちは知らないのが思いがけない日の思わぬ時間だけです。聖書によって、知らないと言えば、それが知らないが、知らないと言わなければ、それが必ず誰か知っている筈、さもなければ、「1260日を言い」又は「1週2週半週」とは何だろう?勿論、主の再来を言い、そうでないと何だろう?
しかし主は確実な「日・時間」を私達に言わないので、私たちが大体の時間しか知らない。しかし もし何年かを確定できれば、もう時間切れです。
主は言われる:「1週2週半週」のことだが、既に末の日に入ることになる。しかし 例えば、末の七の後3年半に居ても、ヨハネの黙示録を読んだことがあれば、そして守れば、勝利を得ることが出来る。貴方は絶対あの獣を拝まらないから獣を拝まないで、獣の印を受けなければ、勝利を得ることになる。
ヨハネの黙示録20章4;また私は,多くの座を見た.彼らはその上にすわった.そしてさばきを行なう權威が彼らに與えられた.また私は,イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと,やその像を拜まず,その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た.彼らは生き返って, キリストとともに,千年の間王となった.
しかし貴方があの3年半の間に大災難を迎えるしかない。なぜかヨハネの黙示録を勉強する必要がある原因は、どこにある:
ヨハネの黙示録1章3この預言のことばを朗讀する者と,それを聞いて,そこに書かれていることを心に留める人¿は幸いである.時が近づいているからである.
例えばヨハネの黙示録を読んだだけでも福のある人とも言える、兄弟達よ慎むように、さもなければ、気楽に地獄の火の池に入れば宜しい。千年後相変わらず基督国度に入れるが、火の湖の温度は摂氏2万度以上の高温もあり、それに各種の虫がいて、ゴキブリ・蛆・サソリ等、1匹、2匹だけではなく、数え切れないほどある。それ以上に怖いのは、永遠に不滅です。
イザヤ66章24:「彼らは出て行って,わたしにそむいた者たちのしかばねを見る.そのうじは死なず,その火も消えず,それはすべての人に,忌みきらわれる.」
「そのうじは死なず,その火も消えず,」貴方にも死ぬことがない、それこそ悪人にとって面白いではないか?
マタイ福音書24章50そのしもべの 主人は,思いがけない日の思わぬ時間に歸って來ます.51そして, 彼をきびしく罰して,その 報いを僞善者たちと同じにするに違いありません.しもべはそこで泣いて齒ぎしりするのです.
「しもべはそこで泣いて齒ぎしりするのです.」そして必ずそうなる。
その時になると、今日のような生活を主から与えてくださったことを思い出すだろう。そして「『現世は不滅の永世』を経営するような話にしっかり耳を傾けなかったし、悔い改めなかったことを後悔するでしょう?最も悲惨なことは私も同様に火の池の中にいりことであろう?
あれは目を覚ましてくださるように、『主よ、唯一の恐れは私が福音を人様に宣べ伝えて、自分自身が失格者にならないように見守ってくださいとお祈りを強めるのである。
コリント人への手紙第一9章27私は自分のからだを打ちたたいて從わせます.それは,私がほかの人に宣べ傳えておきながら,自分自身が失格者になるようなことのないためです.
フィリピ人への手紙三章13.兄弟たちよ.私は,自分はすでに捕えたなどと考えてはいません.ただ,この一事に勵んでいます.すなわち,うしろのものを忘れ,ひたむきに前のものに向かって進み,14キリスト·イエスにおいて上に召してくださる神の榮冠を得るために,目標を目ざして一心に走っているのです.
兄弟達よ私は「うしろのものを忘れ,ひたむきに前のものに向かって進み,」いくらでも地獄の火の池に陥ることがないように頑張るのです。
有る映画で火山が爆発して、あの岩漿が垂れ流して来ると見て、慌てて逃げる人の光景を追って見た。例えばの話しですが、もし、あなたであれば、どうして走るだろうか?あなたは必ず「うしろのものを忘れ,ひたむきに前のものに向かって進み,」
あの岩漿は火の池と比べれば、温度は勝るほど劣ることがない。火の池は今の地球の核心であって、よく似ている。最低でも摂氏2万度に昇る温度を考えると、救いを得られるクリスチャンのことを敢えて指して言うのですが、クリスチャンの生活に失敗した方こそ、あの地獄の火の池で1千年を過ごすことになる。
よく考えてください、相変わらず、今までのように、居眠りをしないように、早起きで、主を認識し、そして神の誡めを守り、なぜなら、未だに残される時間が既に余裕がないのです。
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