エペソにある教会の御使への手紙
ヨハネの黙示録2:1エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。2:2わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。2:3あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。2:4しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。2:5そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。2:6しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。2:7耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
2:1エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
エペソのギリシャ語の意味では羨ましがる意味である。エペソ教会とは使徒時代の教会を指すのですが;大凡西暦60年〜80年の時代である。当時主イエスの12使徒が殆ど生きているので、エペソ教会と呼ばれていた;その意味は羨ましがる教会時代である。
【エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。】;神である主はエペソ教会の光景に対し、多くの褒めがあったが、教会の光景が好くても欠点を見逃す筈はなく、欠点さえあれば、神は必ず指摘するであろう。
先ず教会の光景を見てみましょう;
『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。』この七つの教会の光景が異なるので、各教会の御使に書く時に教会ごとの光景の違によって、それぞれの自己を紹介する。エペソ教会に対し、主は『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。』主は何を言われるのですか?次の通りに言われる;
2:2わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
この「わざと労苦と忍耐」というのは;兄弟達よ、我々には好い行いが有るのですか?主の為に何かを仕えられたでしょうか?例えば;教会のお掃除を手伝ったり、兄弟姉妹を見舞ったり、生活環境困難の兄弟達の面倒を見るとか、これが主によって、言われていた好い行いである。特に悪い行為とは、人の批判をしたり、裁いたり、又教会の中に派閥を作ったりするなどである。
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エペソにある教会の御使への手紙
というので、主はエペソ教会に対し、つぎの通りに言われた;わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。「労苦」とは神の為に仕えるのを意味する。例えば;ある兄弟には体の調子が悪いにも関わらず、毎週の日曜日で、自分の家に聖書勉強の為、兄弟達を使用させることは、「労苦」というのである。それに忍耐強いことが必要であって、人と人の間に摩擦ということがあり、兄弟姉妹の間にも常に寛容な気持ちで対処すべきである。恰好をつける偽りを止め、教会の為、自分の霊の成長の為にも聖書を自分の土台にし、神の言を精神の基礎におき、謙虚さで人々と付き合うのです。
偶にこのことばを「あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。」読んだ時、自分には労苦してますか?好い行いがありますか?と言い聞かせるが、例えば、会社の社員が週に一日しか働かないなら、いくら労苦しても、好い行いがあっても、すぐでも彼を首にしたくなる。はっきり言えば、私達の労苦や行いなら、主から見れば、本当に労苦や行いなどとは言えないと思います。今、世の終わりの時に近付いているが、多くののクリスチャンは熱くもなく、冷たくもなく、まあまあと言えそうな方を神の標準から見れば、物凄く物足りないのではないか?特に神様は定めた標準には妥協しないので、標準に符合しない人であれば、厳しい要求が間違いなく来ます。
神の前では多くの労苦の代価を払わなければならない。若い時;毎日4、5時間しか睡眠時間を取らなかった。夜明けの6時頃に朝のお祈り会を参加し、お昼にも学校の授業時間の以外に集会があり、1週の間、すくなくとも5回の集会に参加してきた。毎週の火曜日の夜にはお祈り会で、金曜日の夜に服事の集会があり、日曜日になると、夜明けの集会以外、安息日礼拝にも必ず参加します。その外に日曜日の午後の集会や夜の無発酵パンを裂く集会にも出席する。当時体の体重は僅か46キロで、凄く痩せていたが何人の兄弟達と一緒に教会に泊っていた、ボスですので、朝飯の準備でも仕度しなければならない。例えばこうなってもたまにも文句をいわれますが、これこそ労苦だと言えるかもしれない。でも今時に比べたら、今の私は本当に楽すぎる。あの時の自分が本当に仕えていたと自分でも思ったが、労苦があっても忍耐があるとは限らなかった。
引き続き;「あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、」
ここでの悪いものとは、霊の悪い人であるので、神は言われた;エペソ教会が罪を寛容できないことではなく、悪い人をお許しできないことを指すのである。人間皆が罪人で、誰をも裁く必要がない。それでは「霊の悪い人」とは、何でしょうか?即ち偽のクリスチャンである。
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クリスチャンと自称してはいるが下へ進みましょう;
「使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。」これは大きな偽りの使徒であるが:偽りのクリスチャンと自称しているのを許さないが、勝手に偽りの使徒と自称するひとでも見抜くことが出来る。あの時代には偽りの使徒が多かった。
実に歴代の教会では多くの偽りの使徒が現れたが、この七つの教会の中にエペソ教会のみ真偽使徒を見抜く能力があります。エペソ以降の歴代の教会は真偽使徒の区別を見抜くことが出来ないので、主の意向に反する偽りの使徒や有名な牧師の出現であっても見抜くことが出来なかった。主の教えによって、何が神の御旨であるか、何が善であって、わきまえを知るべきである。
ローマ人への手紙12:2あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
ですので聖書に照らし合わせて見れば、本当にキリストの言であるか?どうかを確かめてから賢明である。私にとって、他人から間違いだと指摘されるのが好きです。聖書に基づき意見の交流があるこそ、素晴らしいことである。
聖書を前に置き、良心的にまことを話し、言いだすすべての言葉を聖書に基準し、相手がそれを信ずるか?しないか?ご自由に判断出来れば、宜しいかと思います。
コリント人への第一の手紙では「愛は寛容であり、愛は情深い。」と言いますが;もし正反対であれば、愛と言えない。聖書によって、明確に御説明されている。聖書の言うとおりに、私は人には愛がないと言いますが、兄弟達がそれを聞いてから、いいえ、そうではなく、人間には愛があると言い返した。それは別に構いません。なにしろ、神は言われた;わきまえを知るべきである。
パウロは霊の賜物に言及した時に言われた;そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。この言は非常に奥義で、使徒や先知の境を超えた部分である:
コリント人への第一の手紙12:31だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。
多くの兄弟達がコリント人への第一の手紙13章を勉強する時に最も大きな特徴は13章4節について言わないのである。
コリント人への第一の手紙13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
聖書による愛に対する解説を多くの人が理解しきれない。人間は愛に対する定義を理解できていないこそ、大きな問題である。神様の言は時の流れと歴史の変化に耐えることができ、私達にとって、わきまえを知るべきである。
ある兄弟は自分が地球にいる最後の使徒と自称しているが、それなら必ず使徒としての証拠が有るはずだと思う。だって私達の神は全能の神であるので、命じられた使徒に使徒としての証拠を必ず示させられる。
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例えばの話しですが;昔の時代のように天皇から特使として地方へ派遣される時に必ず天皇より特使としての証拠をもらって、物事の処理や身分証明の提示を人々に示すことが出来て、初めて、信頼される。もし神の使徒としての貴方であれば、必ず神からのしるしがあり、これは自我だけではなく、周りの人にも感ずる出来である。尚お祈ることを神からアーメンを下さることが出来なければ、どうやって使徒と言えるよう。
ヨハネの黙示録2:3あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
上記の言は2節に言われる労苦や忍耐より強めた。一般的にクリスチャンは三つの状況がある;一;好い行いがあるが、労苦するとは限らない。二:好いおこないがあり、労苦する。三;好い行いがないし、労苦もないが何かの為に忍耐する。この2:3の言葉によって、「あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。」要するにエペソ教会には好い行いがあるし、労苦し、忍耐強いものである。
人間の性格にとって、苦労しながら文句を言わないのが難しいが、ここで主はエペソ教会に与える評価は「あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。」
偶に兄弟達の為に何かを思いやりでやったのですが、その後かえって批判された。その批判の話しを聞いた私にとって、余計なことをやったなと家でゆっくり休んでかえってよかったではないか?思ったことがある。例えばいくらでも二、三回ぐらいなら我慢できるが、この「忍びとおして」の意味はいくら文句を言われても、裁かれても、誤解を受けても、一向に我慢強く、何も反撃もしないでいる。従来通り「忍びとおして、弱り果てることがなかった。」
ヨハネの黙示録2章1〜3節まで、エペソ教会の羨ましがれる事に言及しているが、四節より責められる部分になる。
2:4しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
「初め」についての翻訳が好いとは言えないが、ギリシャ語の意味には、「極上」の意味です。要するに神は言われた;しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは極上の愛から離れてしまった。
ここで明確されたのは、教会には労苦があり、忍耐ができ、弱り果てることがなく、知識が富み、偽りの使徒やクリスチャンを見分けられる等、すべての光景がよかったのですが、神を愛する極上の愛から離れてしまった。
初めの愛、極上の愛とはなんですか?即ち私達の心の奥にある主に対する最高の愛である。自分の体の健康の良し悪しを超え、財産の多寡や名声地位にも拘らず、更に私達の属霊仕事の成果を超えてこそ、これらのことより主を心より愛することが最も大事である。これは主に対する極上の愛と言える。
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有る兄弟AlbertB.Simpson,と言い、詩の歌を書きました。『昔私には必要なものは祝福であるが、今は必要なのは祝福の主である。昔私には必要なのは祝福される物であるが、今は必要なのはあの祝福の手である。
通常大学生の子供から手紙をもらう時に殆どお金が支送ってくれとの要求だが、それ以外のことで連絡が来ないだろうが、これは子供が父親を愛していないと言っていないが、もっと愛しているのが父親の金である。
例えば、ある女性は自分の夫によく仕えたが、最も愛するのが自分の夫ではなかった。では、貴方はこの夫が妻に対し、どう思いますか?と思う。お料理が一流、家事も一流、家財管理も一流、子供への教育も一流ですが、愛するのが自分の夫ではなかった。それで、この夫はこの様な事に我慢できるでしょうか?答えはいいえ。
神はエペソ教会に対する責めが正にエペソ教会は主を愛するこの極上の愛を離れてしまった。この極上の愛がどこに行ったのですか?教会の仕事や属霊の成果、自分の家庭や仕事などの為に主への初めの極上愛を離れてしまった。
2:5そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその 場所から取りのけよう。
考古学者の研究調査によって、エペソに教会がなかった。「燭台をその場所から取りのけよう。」この2章5節の神の言が的中された。約二千年弱前、既に予言通りになった。使徒ヨハネがこのヨハネの黙示録を書き終えてから、間もなくエペソの燭台が取りのけられた。
非常に妙なことですが、この事実は聖書の言を根拠にしてあるが、エペソが今になっても教会が存在されなかった。この教会には少数の方が悔い改めるので、勝利を得られる方も少ないだろう。兄弟達よ御霊がここでの責めの言葉を聞かなければならないし、悔い改める必要がある。
2:6しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
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今日は思い切り「ニコライ宗の人々」のことを討論しましょう、「ニコライ宗の人々」の意味は、「聖教階級」と言う。
ギリシャ語の「ニコ」は制圧で「ライ」大衆を意味する。「ニコライ宗の人々」は大衆を制圧し、更に人々をコントロールする組織を指す。「聖教階級」の意味は法王、神父、牧師、宣教師を含めるが、長老を含まない。
聖書によって長老を設立する必要があり、牧師の事も言及されたが、聖書による牧師の主な仕事は、「よい羊飼であって羊のために命を捨てる」とのこの上なく最高な使命であるが、かならずしも教会にいる只一人の世間仕事をするためではない。そうでなければ、今の教会の中になぜなら教師という肩書が存在されない。
「ニコライ宗の人々」とは教会兄弟達と神の間に創り出された「聖教階級」であり、これによって相当な悪い結果を招いた。
このような「聖教階級」の体制下で主イエス・キリストを二十年間も信じてきたが、お祈り事さえできなかった方もいるが、なぜなら教会の各儀式の中で、お祈りとは自分に無関係だったので、宣教師や牧師のみお祈りをする。結果として、教会中、宣教師や牧師しかお祈りができなかった。
「聖教階級」の体制下で、兄弟姉妹達をこのような光景までお導き、お祈りさえできていないとは恐ろしいものではないか?もっとひどいのは;信者達が聖書を読む必要がなく、牧師だけ読めば好いと主張した。例のテアテラ教会―カートリック教会はそうだった、階級の有る人ののみ聖書を読むひつようがある。その後のサギデス教会はこのような制度を改革してから、兄弟姉妹達に聖書を読ませるように回復した。
これこそ「ニコライ宗の人々」―「聖教階級」が勝手に宣教師や牧師しか聖書を読まないという神の教えに違反した制度を作りだされた。これは通称「ニコライ宗の人々」の教訓である。
例えば;伸学院に卒業しなければ、福音を述べ伝えられないとか、教会の牧師になれないとか、これは非常に理屈に合わないだろう。台湾には最も有名な神学院は「華神神学院」というが、これは呉勇長老が創設されたが、呉勇長老は新学院に入学したことがなかった。ではペテロは神学院から出たでしょうか?そして他の使徒も同じでは;ヨハネ、ヤコブなど。
只パウロは当時有名な「カマレ」の門下で、当時にてもっとも正規なユダ教の神学院であるが、パウロは神学院から卒業してから自分に役に立ったのか?というと;パウロは非常に傲慢の人に変わっただけではなく、真理を脅迫し、イエス・キリストの信者を殺害するなど極めて悪だったが、ずっとダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。それから真理を本当に分かるようになった。使徒の中に只パウロのみ神学院にはいったことがあるが、効果がよくなかった。もし神学院に卒業したという肩書で、それこそ「ニコライ宗の人々」―「聖教階級」ということです。ヨハネの黙示録では2:6しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、―神は続いて言われた;わたしもそれを憎んでいる。
私は思い切りかつ大胆に言いますが、この節の意味はすぐこの気振りの解です。
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勿論恐らく多くの牧師は上記の解釈に納得できない方もいるだろうと思いますが、彼らは殆ど4年の間に神学を勉強して卒業したが、更に頑張って神学博士の肩書きをとった方もあります。その内、裁きの日がくるので、その日になると必ずこの真理が正しいかどうかを確かめられる。
2:7耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
ここで言われる;御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。それを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、勝利を得るものには神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
兄弟達;神は最も貴方の一番気にすることに触るのが好きである。だれでも手が離したくないものはあるが、神はわざわざ貴方の最も気になることに触る。極上の物とは何ですか?例をあげましょう;アブラハムはイサクを奉げる生き生きの証拠である。当初のアブラハムはハランに居た時、なぜ主に従うのですか?主は大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにすると祝福したからである。
創世記22:17わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、
アブラハムは主に従って自分の期待をかけていた。ハランを出たとき七十五歳であったが子供がいませんでした。主に従って86歳までも子供が生まれていなかった。彼の妻であるサライにひとりの仕えの娘がいて、エジプトの女で名をハガルと呼ばれた。サライはアブラムに言った;「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえの娘の所にお入りください。そして彼女によってわたしは子を持つことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。アブラムの妻サライはそのつかえの娘であるエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻としてお与えた。こう言う事はアブラムがカナンの地に既に十年間も住んでいた後であった。ハガルが男の子を産んだ、そしてその子をイシマエルと名づけた。
イシマエルが十三歳の時にアブラハムは九十九歳となった時に、ある日主はアブラハムに現れて言われた;
創世記17:16わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。17:17アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。17:18そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。17:19神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。
上記の聖書によると、アブラハムの主に対する信仰はどんなに信仰心をおもちであろう?しかし神の予言の通りに翌年になって、サライが本当に男の子を産みました、その子の名をイサクと名づけた。
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その後、神は再度アブラハムに現れて言われた;
創世記22:2神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
この時期にイサクが既に大きくなったが、アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。目的地に近付いてから;アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に山に向かって行った。
ここで神ははっきり言われた;貴方の一人子で愛するイサクである。神は言われるのはイサクであり、イスマエリではなかった。神の示した山でイサクを燔祭としてささげなさいと指示した。しかし下記の聖書を読みましょう;
創世記21:12神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。
ということによって、神はイサクを燔祭としてささげなさいと言われた時に人間の考え方から想像すると誰でも非常に難しいことだろうと思う。「イサクとは神の恵みで、神はイサクと契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。と言ったことがあると過去の話を思い出すだろう。しかしアブラハムとしては、ちっとも疑わなかった。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
アバラハムは自分の一人子を燔祭として神にささげる為に朝早く起きた。このように神に従って、神の命令に畏敬する気持ちを見ると私達にも見習うべきではないか?と思います。
聖書の続き;
創世記22:5そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。22:6アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
暫く歩くとイサクは父親に聞きました;
22:7やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムはイサクに次の返事をした;
22:8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。
アブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
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彼ら二人は示された場所にやっとついたがそれで;一生の計画―希望、最愛の息子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
創世記22:9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。22:10そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、22:11主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。22:12み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
モリヤの地はどこにあるのですか?イサクが縛られ、あの祭壇のたきぎの上に載せられたあの所は千年以降、ソロモン王が東エルサレムに神の宮を建てる場所となった。又その後、イサクの子ヤコブがそこを経過した時に神の御使を夢を見て、
創世記28:12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。28:17そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。28:18ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、 28:19その所の名をベテルと名づけた。
ヤコブはベテルで神に出会った。まくらとしていた石を取り、それを立て、柱と祭壇として、当時のアブラハムによるイサクを奉げる場所、即ち後になって、神の宮を建てられるところであった。
このモリヤの地にある山にイサクを縛って祭壇を作ったアブラハムは極上の愛と畏敬の心を神に奉げることによって、神の宮もこの土台にある愛の基礎の上に建てられた。そして主に従う私達の間にある艱難と忍耐の上に建てられ;また教会の兄弟姉妹達の愛の土台の上にたてられる。こう言った土台の基礎があってこそ、神の宮が建てられる。
私達の心には多く手が離したくないものがある。手が離したくないものに神はそれを触れてくる。しかし一旦切り離せれば、奇妙であるが、神からの祝福が来る。
創世記22:16言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、22:17わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、22:18また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。
また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。この子孫とはイエス・キリストを指すのである。
兄弟達;神に助けてくださるように、自分がどこから墜落し始めたのか?反省できるようにお祈りください。最も大事なのは悔い改めることである。そして自我を切り捨て、最初の行うべきの事が自身の極上の愛を神に奉げるのである。ここで神は勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。という恵みを下さるのです。
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