聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)作者:呉明憲兄弟 


第十二講―ラオデキヤにある教会の御使への手紙



ラオデキヤにある教会の御使への手紙

ヨハネの黙示録3:14ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。3:15わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。3:18そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。3:19すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。3:20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。3:21勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。3:22耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

  此処まで既に六つの教会について、勉強をして参りました。エペソ・スミルナ・ベルガモの三つ教会が既に過ぎ去った。この三つ教会の御使への手紙の中に、主の再来のことを提起した事がなかった。ところで、テアテラ・サルギス・ヒラデルヒヤ・ラオデキヤの四つ教会への手紙にはこの四つの教会が主の再来まで引き続くことを語られている。
 ペルガモにある教会ではいわゆる「階級」「連合」と言うような組織の教会の後、教会がテアテラ教会のような偶像を拝み、香りの祭りを行いまで墜落された。その後16世紀初頭のマチンルーテルの宗教改革により、サルギス教会の回復運動に引き続き、18世紀に入って、ヒラデルヒヤの兄弟教会が発って、聖書の教えをきちんと守る教会愛の運動を起こして、兄弟姉妹の間に愛し合うことである。
 ヒラデルヒヤの兄弟教会の運動も時間がたつにつれて、次第に衰えて行きながら、次にラオデキヤと言う教会が立って起こした。
 上記の聖書についての奥義解釈は20世紀初頭の中国人のニトウセイ兄弟によって、詳しく解釈された。
 続きましては、ラオデキヤという教会を論じましょう;ラオデキヤのギリシャ語は「大衆の意見」と言う意味である。即ち教会の行事に口を挟む方が多いという意味です。ニコライ宗の教の「ラ」と同じ「大衆」の意味で、オデキヤが意見を意味する。ラオデキヤの状況は教会には知識が有って、(衆論)大衆の意見もあったが、神の権威がなくなったを指して言うのです。
私達には正確に物事を区別する必要があり、教会に神の真理地位が一番にしなければならないが必ず自我で物事を判断し、取り扱うことではない。
ヨハネの黙示録3:14ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アーメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
 神はなぜ「アーメン」を言われるのですか?神は別名をアーメンーと言い、『願いは思いの通りになる』と言う意味である。正に私達の願わくは他人ではなく、主イエスである。
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  今にラオデキヤにある教会の光景には失ったものが主イエスに対する強い信仰ということです。我々は物事に対処するのに別の方法を信頼する。誰か教会を建てられT?アーメンと言われる神であるので、主から特に教会に向けて言われた;主こそ「アメン」、すべての事につき、基督以外、成し遂げる事が出来ない。神でなければ、何もかもできない。
 今の教会にいる兄弟達が何もかもよく知っている。例のヒラデルヒヤの兄弟教会の奥義を含めても分かると自認しているが、こういう驕りがあるこそ陥りしやすくなるのである。愛の心を失って、イエス・キリストを信じていなかった。『アーメンたる者、忠実な、まことの証人と神に造られたものの根源であるイエスを信じ切れなかった』。
 ラオデキヤのような教会は身の廻りの事がよく見えますが、その後にある神の教えがよく見えなかった。信者達は主より外側世界の事の方が重要だと見向きがある。例えば、政治の事ですが、政治世界のこともすべて神の権威の下にあると言う事を信じていなかった。人間が一旦悪い方に陥ると信仰の光景もますます自覚がなくなる。
 ヨハネの黙示録3:15わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
 今の我々の信仰光景が正に冷たくもなく、熱くもない。主イエスを愛しますか?と言えば、まあまあ愛していると自認するが、教会に対して常に「距離を保ち、安全を持て」という自我安全志向を持つようです。冷たいと言えば、冷たくもなく、毎週の安息日にも必ず教会に顔を見せるが、例の教会へ行かなくても、別の教会に行くことになる。しかしいくらたっても信仰光景がどうしても冷たくもなく、熱くもない。例えば、お隣さんが偶像を拝む為に早起きをして、読経の声が聞こえても、自分が相変わらず、朝寝坊をし、日が高く昇るまで眠りを続きます。
 今に私達は主の為に代価を支払いたくないし、傷をつけられたくもない。自分の暮らしを楽しみにしているが、自分から周りの事に多くの意見が出る;「大衆の意見」。ラオデキヤと言う教会の光景に対し、聖書の教えは;次の如く;
 3:16このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
 若い時に上記の聖書言葉を理解できなかったが、人生や信仰体験の積み重ねによって、次第に分かるようになった。例えば;最初に熱いスープを飲み、次に凍るアイスを食べて、又フルーツジュースを飲む時に冷たいジュースを飲めば、美味しく飲める。所で、もし冷たくもなく熱くもないスープが目の前に置かれても飲みたくもない。尚凍っているアイスでなければ、それを食べたくもないでしょう。だから主は言われた;あなたを口から吐き出そう
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  誰か言った言葉ですが;クリスチャンとなるのは極に簡単なことである。毎週教会へ礼拝をしに行けば、そして献金袋に献金を入れればそれで宜しいと言った。
  全教会の光景がそうだった。安息日に礼拝に来るのは主の面子を立てるためで、献金袋にお金を入れるのも主イエスに施しを与えると思い、兄弟達に出会えば、平和があるようにと繰り返し、人々の目にこれが標準のクリスチャンだと映るが、神の目に映るのが墜落と認められる。主は言われた;あなたを口から吐き出そう
 3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
  ラオデキヤ教会では大衆の意見が多くて、特にはっきりしているのが驕っていることである。ヒラデルヒヤ教会には聖書の知識が有るが、愛情がない。何もかも分かって勉強したと自負している。実は何もかも分かっていない。これこそ「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが。」
 ラオデキヤ教会の言う言葉を見て見ましょう;私は何もかも詳しいだけではなく、異言が話せるし、神の幻も見えると自負している。 
 なんの不自由もないと皆は言っているが、神から責める言葉を読みましょう;「実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、=貧乏者を意味する」。「目の見えない者=何もかも分からないという」、「裸な者であることに気がついていない=行いが好くない。」
 だからどうしたらよろしいか?神は次の言葉を教えて下さった;
 3:18そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
 17節の「実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者」に対し、神はラオデキヤ教会に言われた;「わたしから火で精錬された金を買い=買いとは代価を払うこと。」
 兄弟達;救いの福音はただで下さるのですが、勝利を得る者になりたければ、代価を払わなければならない。主に仕えるであれば、代価を払いなさい。
 金は神を代表する;私達は聖書をよく勉強し、聖書を努力暗記し、代価を払って聖書を勉強する事が極めて大事です。「富む者となるために、主から火で精錬された金を買い」。
白い衣を買いなさい;白い衣を買う為に代価を払わなければならない。
  裸の恥をさらさないため、身に着けるように、白い衣を買いなさい。さもなければ、自分の裸の恥をさらす事になる。
神は裁きの日に私達を照らせば、私達が裸の恥をさらすように罪を表すので、今のうちに早く悔い改めて、行動しましょう。
 また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。兄弟達よ代価を払え、ラオデキヤ教会の信者達が自分の暮らしをよくするために代価を払わずにいられることが早めに間違いに気がつけば、代価を払って、勝利を得る者に向けて頑張りましょう。
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  ラオデキヤ教会の信者達の光景が正に神の言われた通りに、大衆の意見ばかりとなった。個人の意見が多過ぎて、強がって、驕って陥った。しかし今でも自分には何もかも豊かだと勝手に思い込んでいた。
 ヨハネの黙示録3:19すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
 ラオデキヤ教会の光景には、主は言われた;すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。もし主は貴方を愛すれば、あなたは冷たくもなく、熱くもないでもなれば、主は環境を発って起こし、貴方をしかったり、懲らしめたりするが、それは必ずただごとではないと考えなさい。だからそうならない内に主の為にも自分の為にも熱心を早く起こすように悟るのです。
 ラオデキヤ教会は主の再来まで更に近付いていますが、神は既に玄関の扉を叩いている時期であって、ラオデキヤ教会も七つの教会の中に最後の一教会であり、主の再来に亘る。テアテラ・サルギス・ヒラデルヒヤ・ラオデキヤの四つ教会が主の再来まで引き続くことを語られているが、エペソ・スミルナ・ベルガモの三つの教会がもはや存続していなかった。
 この聖書を読む時に、ヒラデルヒヤ教会の兄弟会の兄弟達の明確な聖書を解釈して頂いたことを心より尊敬の意を表したく存じます。主はすべて主の愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりするので、熱心になって悔い改めなさい。熱心さだけあるが不十分で、必ず悔い改めることを実行に移すのである。さもなければ熱心も途方に暮れる。そして教会の中に更に多くの意見が増えることでも、意義がありません。熱心を起こして、悔い改める。
 3:20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と
  ラオデキヤ教会に関する主のメッセージを勉強する時、主は既に「しかり、わたしはすぐに来る」と言われたが、今のラオデキヤ教会で、主は既に玄関の扉を叩いている時期である。主は言われた;だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。聖書では「彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と言う事に言及する事がどれほど恐縮であるが;主は地上に居た時に親族のおばあさんに何を話したのですか?
 マタイによる福音書20:20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。20:21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。20:22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。20:23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
 このお母さんは自分の子供の為に主イエスに何事かをお願いしたのですか?それは「自分のふたりのむすこが、主の御国で、ひとりは主の右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」と願いをした。即ち「彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と言う事です。
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 主の答えによると、物凄く重大なことだと分かる。主が予言したようにヤコブとヨハネの二人のも殉道の杯を飲むことになるが、イエスは彼らに言われた;「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。要するに主と食を共にすることが易しい事ではない。

 しかし主はラオデキヤにある教会の御使への手紙の中に言われた;「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」、主と食を共にすることが許される。ここから分かるようにラオデキヤにある教会から勝利を得るものを生み出すのが並大抵ではない。大衆の意見が多い時代に、それぞれに考え方が有り、傲慢の環境に置かれる皆には、私達は聖書の真理を読み出し、謙虚を持って、教会の掃除係を担当する。又「白い衣を買って着て、また、よく見えるようになるため、目にぬる目薬を買って塗る」、そして断食する。終わりの日に付く奥義を私達に開いて下さるように。そして代価を惜しまずに払えるようにをさせてくださいとお祈り求めることが大事である。
実は主は扉を叩いているので、誰か扉を開けに行かれるのを見て見ましょう;
 だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう
 3:21勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
 私は台湾の国際企業エイサに務めた事が有り、任される責務は会社のブランド宣伝部の経理である。ある日、やめようとしたので、会社が適任者がみつからなかったので、誰か適任者がいないかと尋ねられた;そしてある会社業績の中に同業他社より電子ネット販売に強い一人の経営者をリストアップさせてもらった。社長も同意した。そして私が止める三日前に、後継者がお見えになって、暫く世間話の後、私が立って、ちょっとこの椅子に座らないか?三日後が貴方の座る席になるからと言ったので、後継者が立って、その椅子に座った途端にいきなり椅子が反転し倒れたか?今までもよく知らない私です。勿論当時の彼が床に椅子と共に倒れた。私の事務室を出てから、私が秘書に向けて言った;大勢の人がこの大会社の幹部に成りたいと思っているのではないか?秘書はなるほどです、今にやっとおわかりになったでしょうか。
 これも只一つ大会社の幹部の椅子だけで、どれぐらい輝かれるか?しかし神と食事を共に出来るのが何倍ぐらいの栄光が輝くでしょうね。
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  3:22耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
  兄弟達;貴方はあのような席について、どう思いますか?当時のサタンが雲のいただきにのぼりたく、いと高き者のようになろうと企んだこともあった。
 イザヤ書14:14雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。14:15しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。
 主は特に説明を付け加えた;
「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。」
これはこれは何と言うでしょうか?どんなに素晴らしいでしょ。
  兄弟達 気にするな、この暫く短い苦難につき;コリント人への第二の手紙4:17なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 又自分が午後5時59分30秒になってからやっとぶどう園に入れたことを忘れないでほしいい。しかし入っても30秒しかなかった。私達に与えられる時間がそんなに多くはありません。
 マタイによる福音書20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。

 兄弟達 私達は主イエスキリストの苦難の中に居られてもたったの30秒しかなく、そう多くはありません。願わくは教会の誰から唾を吐かれても、寛容と愛を持って対処すし、貴方に主の祝福があるようにと言う言葉が言えよう。そうすると私達に神よりの冠が賜って下さる。尚誰に右の頬を打たれても、左の頬を突き出してどうぞ打って下さいと言えよう。これこそ神から与えられる生命である。今の話を笑わないでください、私は本気で言っているのです。教会にはこのような生命が無ければ、兄弟姉妹の組み合わせによるの仕えができないであろう。
  3:22耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

  今日は御霊が私達に言う事ですが、耳のある者は、言うことを聞くがよい。このような言葉は神が七回も言い続きました。七とは完全である。サルデスにある教会に言うのは悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。見よ、ラオデキヤにある教会に言われた;「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」。主は既に厳玄関の外側にいるのです。
 ある詩の歌の内容だが「機会がどれほど少ないか?すべての機会が過ぎ去ろうとしているが、貴方の僕の心に早く来ると言わせないで、将来に悔いが残らないように。将来になって今のすべての機会が消えてしまうので、今の時間を大事にしてください。さもなければ主が再来の時に主に何を言おうとするでしょうか?まさか私は貴方の兄弟であり、お金の稼ぎと株の投資とBMWに置いてあると言うか?苦難の中にちっとも忍耐がないですか?その時になると、恥ずかしくて神の国に入ることになるだろう。
 神は七つの教会の御使への手紙の予言によって、主が再来の時にこの世にある教会の光景を予言され、それぞれの教会の異なる状態を慎しむように目を覚まさせる目的である。エペソ教会の手紙を読むと、その最初の愛を離れるべきではないのを分かった。
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 極上の愛を自分の子供と自分の事業に只で与えて、その代わりに二等級や三等級及び五等級の愛を主に奉げるだけです。そうする自分であれば、早く悔い改めなさい。必ず極上の愛を主に奉げることを悟るべきです。例えば一人の男は言われた;貴方を愛するが別の女性も愛しているというような愛であれば極上の愛と言えない。
 スミルナ教会の事に言及すると私達はその苦難を喜んで受けますが、苦難の中にあるべきの忍耐が必要で、それに忍耐強く生きなければならない。多くの人が苦難に出会えば、弱気になって、なぜこうなったの?主に文句気味の言い方を呈するばかり、どうして助けて下さらないのですか?と文句の言葉を連発する。人間の一生の生活の中に特に仕事、健康、人間関係など試練が付き物で、温室の中の花で成長が出来ないだろう。苦難が苦しい連続でも主が道を開いてくださらなくても、信仰を弱めるべきではない。
 苦難の中にあるべき忍耐が必要である。その苦難を切り抜けるこそ、永遠の命と肉体生命の価値が悟られる。
ベルガモ教会を読む時に、政治と連合の教会の時代に置かれる人間であれば、苦難迫害の中にある忠実がいかにも大切であろうか?よく分かる。マラキ書3:6主なるわたしは変ることがない。主は永遠に不変ですが、血の気の人間であれば、変わりものである。忠実を堅持し、最後まで耐える者が勝利を得ることができる。例えば;「悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」
 又、主の忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、主に対する信仰を捨てなかった。即ち政治と教会連合に反対する忠実な信者が殺され、迫害される時に主に対する信仰を守った。残酷の迫害によって殺されても好い場面の肉体の終焉を迎え出来なくても、主に忠実であったことを見習うべきです。
 テアテラ教会の場合は、皆を惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べる時に。ただ、主が来る時まで、自分の持っているものを堅く保って事が出来れば。勝利を得る者となれる。
 サルデス教会を論ずるとサルデスのわざが、神のみまえに完全であるとは見ていないが、私達はそれを裁くべきではない。ただサルデスにはその衣を汚さない人が、数人いるので、彼らは白い衣を着て、主と共に歩みを続けるであろう。私達は、それにふさわしい者と白い衣を着せられるように努力しなければいけない。
 ヒラデルヒヤにある教会の教えに従って、真実な愛をもって、教会の兄弟達を愛し、助け合い、そして神は地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、神によって、防ぎ守られる。主はすぐに来るので、自分の冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守るように。勝利を得る者となって、神の聖所における柱になれるように。
 ラオデキヤにある教会の現状を知って悔改めるように、私達のわざを知っている神の教えに従って、冷たくもなく、熱くもないわざを悔い改め、完全に熱くなりましょう。神から精錬された金を買い、また、自分の裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買って、また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いましょう。
 七つの教会は神の金の燭台であって、私達としては、裁くべきではない。今世界を見渡しても確かにこの後ろの四つの教会の光景だけ存在している。神の予言通りになったので、非常に奇妙ではないか?これも神の権威によるものである。
 私は他人に聞かれる度に嫌な事が有る。即ち貴方はクリスチャンですか?どこの教派ですか?その時に私は、はい、クリスチャンですが、誰に対しても受け入れる気持ちです。私の口が開いて、心が広いもので、長老教会にもパプテスマ教会にもルーテル教会にも全部私の兄弟である。
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