聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)作者:呉明憲兄弟



第十三講―御座が天に設けられており



ヨハネの黙示録四章1節〜11節

4:1その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。4:2すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。4:3その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。4:4また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。4:5御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。4:6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。4:7第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。4:9これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、4:10二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、4:11「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。

  私は、ヨハネの黙示録にある唯三つのポイントを述べられていると何度も強調した。1:19そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。
「書きとめなさい」をするとヨハネの黙示録となり、そのすべての内容が三つの出来事によって成り立つのである。要するに見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることの三つである。四章1節の場合、この三つ出来事のどっちを指すのでしょうか?
  4:1その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
「4:1初めにあるその後」という意味は、第四章から始まると言う事を指すのである。即ち1節にある「今後起ろうとすることを意味すると極めて明確である。第四章1節から「今後起ろうとすることを論じることである。

 聖書を読むのにその意味を勝手に推測すべきではなく、聖書の言に基づき、聖書の内容を解釈すべきである。
 ペテロの第二の手紙1:20聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。1:21なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
 第四章から始まる「今後起ろうとすること」に関し、主に最後の一週についての予言であり、最後の一週の始まりというのは、教会時代の終焉を迎えると言う意味です。
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  ちょっと復習しましょう;
 ダニエル書9:24あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。
 六十九週の時に主イエスが十字架に釘付けられてから教会に突入した、それが教会の始まりである。六十九週と最後の一週の間に突入した教会の発展歴史にはイスラエルと聖の都に関係がありません。イスラエルには関係する部分こそ、ダニエル書9:24の述べる内容であり、即ち七十週の予言部分に関連するイスラエルのことである。
  だから「七十週の第一階段は七つの七年=49年のことである。この時期で聖の都エルサレムを再建された。第二階段は六十二個の七年があって、、第二段階は434年間の長さがあった。主イエス・キリストが十字架に釘付けられるまで、第二段階が終焉を迎えます。

 注意する所は主イエスが釘につけられてからこの二千年の教会時代を「現在の事」と言いますが、ヨハネの黙示録の第二、第三章にある記載がこの二千年の教会時代を「現在の事」と述べてあります。最後になって、教会時代の終焉を迎える時期に、末の七週と言います、末の七週と言うのは最後の七年と言う意味で、ヨハネの黙示録にある第一章の19節にある今後起ろうとすることを意味する。
三件目のこと即ち;「今後起ろうとすること」について、主な内容が人間の最後の七年で、ヨハネの黙示録の4章から二十章まで、全部17章もあって、ヨハネの黙示録の大部分を占めた。そして二十一章と二十二章が新しい天、と新しい地と永遠の神の国のことを述べる。
この人間最後の七年の間にもいくつかの階段に分けられている;一番目;七つの封印を解き、二番目は七つのラッパを吹き鳴らし、三番目は七つの雷が声を発する時のことである。しかし七つの雷の奥義を説明しなかった。
ヨハネの黙示録10:4.七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな」と言うのを聞いた。    
  七つの雷の語ったことを封印せよという神の御心であるので、今になってもまだ誰もそれを解いていない神の奥義である。
  七つの封印を解く前に、天に神の幻が起こって、「一つ挿入される神の幻があり」、ヨハネの黙示録の四章と五章によって、記載されている。
 そして七つの封印を解く過程中で第六の印と第七の印の間にも「一つ挿入される神の幻があり」、即ち第七章の内容に当たる。七つ目の封印が解かれてから、七つのラッパを吹き鳴らしの始まりである。
 七つのラッパを吹き鳴らしの過程で、六つ目のラッパと七つ目のラッパの間に「一つ挿入される神の幻があり」、即ち第十章と第十一章の前半(1〜13節)の内容に当たる。それで、七つのラッパを吹き鳴らし、七つの鉢を、地に傾けの大災難の始まりである(16章)。
 聖書を熟読する方が分かるように神の動きは幻から、始まって、次に行動に移ることですが、私達は常に動きがすきであっても、神を認識しなければ、神の動きを引っ張り出す事ができない;神の前では神に対する認識がなければ、又心の準備時間がなければ、主に仕える道に長続く事ができないだろう。
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 ヨハネの黙示録4:2すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
 前では神から七つの教会の使者への手紙を読みましたが、主は先ず各教会に自分のことを紹介します。例;『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が』「『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が次のように言われる』;これによって、神は教会や教会の身使や兄弟達に言われる時に、必ず自分のことを黙示し、キリストが誰であるかを黙示する。
では第四章の神の幻が始まると神は見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。我々には霊の事について、多くの難所があって、要するに御座にいますかたのことをよく存じません。この地上に200個国家を超え、即ち200個以上の国家を治める権力者が居て、その国のトップの事を誰だとその国の国民も必ず承知しているはずであるが、しかし神の事を認識できていない方が多いようのです。
 ローマ人への手紙13:1すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。13:2したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。13:3いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。13:4彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。

 ヨハネの黙示録の第四章を読みましょう;
 4:1その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。

  なぜ「わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった」?私達の一生涯の中に何回か頭をあげて、天を眺めるでしょうか?日々の暮らしの中に、常に頭を下げて自分の廻りのことや地上の事しか見ていないのではないか?常に天を見て神を仰ぐということをしないのではないか?人間にとってすべての障害や危険や助けも地上からくるので、天を仰ぐこと即ち常に神を仰ぐことを気にすべきではないか?地上を見てお金うを拾って金持ちになった人がおりませんでしたので、聖書では、見よ、開いた門が天にあったことについて、我々にとってこれからの信仰生命には、天を仰ぐ事が大いに役に立つであろう。所で、この聖書言葉を読んでから、ため息をする方が言われた;どうして天が開く時に私が見えないのでしょうか?それが見えないではなく、ずっと天を仰がないから。常に天を仰がなければ、天が開いてくれないのです。
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  使徒ヨハネがこの時期に既に90歳の高齢を超えていたが、霊のある人かつ非常な経歴の持ち主、又四巻の聖書をも書きあがった。ヨハネによる福音書・ヨハネの第一手紙・ヨハネの第二手紙・ヨハネの第三手紙であり、只ヨハネの黙示録が完成していない。よく考えて見てください;ヨハネの手紙が神によって、認められ、又新約聖書の中に組み込まされ、聖霊の御言であるように、このような霊のある方なら、病気治し、鬼を追い出し、方言を言い、神の奇跡を行いなど、出来る使徒ですのに、まだ天を仰ぐ必要が有りますか?当時96歳の彼で、12使徒も彼しか生きていないので、地上の教会の中に最高な尊敬を集めていたではないか?
聖書によって、主イエス自らヨハネを呼び召したので、ヨハネもずっと主イエスの側に従って、彼の言う事を誰も疑う事がなかった。貴方がもしかしたら誰と聖書の議論をするかもしれないが、使徒ヨハネと議論する毛頭もないと思います。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つの福音書の記載によって、ヨハネが正真正銘の使徒であることを証明されている。ところで、ヨハネが常に天を仰いで、地を仰がないのです。私達は使徒ヨハネの経歴や霊の力もないのに傲慢や怠慢などが付いています。
ヨハネは言われた;「その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。」実に言うと開く門が天にあることを見たければ、常に天を仰がなければならない。即ち信仰の心は常に神の言葉を心に一杯詰めて、神の言によって喜びが有り、期待があるのです。このような心境出なければ、熟練のように動きやすくならないのです。信仰の難しさが目の見えない神をどうやって心の目で見る事が出来るか?又自分の霊で御霊の感動を受け入れられるか?霊のある人間になりたければ、誠心誠意に代価を払うことによって、神からの憐れみや恵みが臨む事が出来るのです。神の恵みがなければ、霊のある人間になれない。これも技能や等級資格を取る学識勉強と異なって、大事なのは心霊の心ざしと善の行いの実行によって、続ければ、最低3年以上の歳月がかかるでしょう。

マタイによる福音書7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

聖書の教えによれば、天は何回も開いた事があるという。
創世記28:10さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、28:11一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。28:12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。28:13そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。28:14あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。28:15わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。28:16ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。28:17そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

エゼキエル書1:1第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。

使徒行伝7:54人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。7:55しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。7:56そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。

  ヤコブとエゼキエルとステパノが最も困難や苦難の時に神は天を開いてくださった。なぜなら私達の人生には退屈だと思いまませんか?どうして私達の人生には変わりが有りません。気持ちがお天気屋のようで、常に曇りがちの顔色で、雨に濡れに濡れた自分の惨めさに希望がないと常に沈み込む。伝染病の流りがあるとぴりぴり緊張の日々で、大地震がいつ来るか神経がビビっている毎日である。この様な暮らしや人生にはまっぴらで、自殺を図る日本人も12年間に続いて、3万人以上を超えて、一向減る気配がない。しかし、自殺すると地獄行きになるのが間違いないし、イエス・キリストを信じていない人も必ず地獄にある火の池に投げ込まれる。
 「サタンの言葉を日本人の心に深く入り込んでいる:死んでから仏になると言う言葉によって縛られる。」。日本は世界で有数の技術工業大国であり、世界に冠する有名なブランド商品も44種類以上があり、要するに日本人のような真面目さと智慧のある者が世界のどこにも負けないと言えようですが、なぜ霊の世界のことをよく理解できないのでしょうか?
 「死んでから仏になる」と言う言葉を信じ込んで迷わないでしょうか?「これはサタンによって、貴方の心を惑わす言葉である。早く目を覚ましなさい。
 憐れみな日本人兄弟よ、よく考えてください、例えば;好い人でいれば、死んでから佛になれば、それが納得できる考えであるかもしれないが、しかし悪い人や殺人犯にも死ねば佛になると言う事が有りうるでしょうか?天と地に一定の土台のバラスがあって成り立つのですが、人間の世界でも「自行自得と身から出たさび」という言葉があり、日本人よ目を覚ましましょう、もう自殺をしないで、早く主イエス・キリストを信じなさい。智慧のある民族ですので、真実の歴史と考古学から天地の神が誰であるかを探し、それを証明する歴史と考古学の証明があるので、世界的なブランド品さえ作れたので、自分の永遠の命―霊魂のことをバカにしないように真剣に探しましょうよ。
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  ここで神の言を述べ伝えることによって、自分の一生にはとても意義と価値があって、真の神を信することによって、心の奥では確かな把握があり、自分の人生の道が正しいと確信しているし、やってきた事にも永遠に残るでしょう。本当に限りある極少ない人間しか私のような感動がないでしょう。いくらお金を多く稼いでもこの穏やかな気持ちや平安が得られないと思う。
今日まで神に仕えてきて、人生を歩ければ歩くほどこの道が正しいと自信が付きます。他人と違って気分が変わり易い事はありません。人間の年齢が歳がとればとるほど、空々しく感じ、賑やかな環境に居ても、暫くこの寂しさを忘れるが、一旦一人になると再びその空々しく感じが戻ります。歳が取ったが明るい将来性がないし、心配するのが子供のことや自分の健康状態ばかり、尚更いつ死ぬか、本当に人生が惨めなことですが、死を待っている間に、最終的にも死ぬことになるが、肉体が死んでから、永遠の霊魂が地獄ゆきとなって、本当の苦しみがこれからですよ、だから今日の私達は主を信ずる事が出来て本当に人生が充実です。
もう一度読みましょう
4:1その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
ここで言う「さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が」。
ここのポイントは「わたしに呼びかけるのを聞いた初めの声」。ヨハネはこのヨハネの黙示録を書く時に、初めてこの「さきにラッパのような声で」を聞いた。
これはヨハネが以前この声を聞いた事がなかった。主イエスと共に地上に居た時も聞いた事がなく、主イエスが甦った後もきいたことがなく。また五旬の節の時もきいたことがなかった。これは初めの声だった。
兄弟達 神の前においでになると、常に初めての声が聞けるように心の準備を揃えるべきです。三十年余りのクリスチャン生活の私が今になっても聖書を読む時にも初めのような感覚で読んでいる、実際に百回以上も読んだことがあったのに。
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  使徒ヨハネが主に仕えてから少なくとも七、八十年、一生涯に渡って霊のある体験が数え切れないほど多いですが、それでも初めての声と言う。願わくは我々は常に主の声が聞けるように特に教会の集会に来ても、いつも聞く耳を持つように、くれぐれも聞いた事があるので、集中力が切れて、遂に礼拝中でも寝てしまう。このような信者であれば、その霊の成長に限りがある。
エリシャとともがらの、ひとりの妻の事を話しましょう;

列王記下4:1預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。4:2エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。4:3彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。4:4そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。4:5彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。4:6油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。4:7そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。
上記の聖書から何を勉強出来たでしょうか?器がもっとあれば、もっと油が出てくる。これは人間に言い換えれば、もう何もかも分かるので、傲慢になれば、恵みが止まってしまうことと同じである。
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「さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が」。ラッパのような声というのは、大きい声か小さい声かー勿論大きなこえである。神は私達に声をかけるのが大きい声でなければ、私達が中々聞き取れない。人間が難しい、小さい声の場合、中々聞き取れないが、大きな声でなければ、主イエスの教えを気にしないではないか?我々も使徒ヨハネのように霊のある人なのに神の大声でないと聞き取れないのだ。次に;
「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
これから後におこるべきことを言うのに、なぜ上の方に上って行かなければならないでしょうか?一階じゃだめ、三階でないと、何か区別があるでしょう?「ここに上ってきなさい」と言う言葉がなくても構わないでしょうか?探ってみましょう
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以下の内容の「ここに上ってきなさい、そうしたら」という所を切り捨てれば、
オリジナル;
「さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が」。
「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
ここに上ってきなさい、そうしたらを切り捨てる
「さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が。
「これから後に起るべきことを、見せてあげようと言った。」
上記の内容を比べたら、ここに上ってきなさい、そうしたらがなくても通じるのです。小学校の時と同じように、作文をする時に加減できる。常に聖書の言葉を読む時、ご飯を食べると同じ様に繰り返し噛まないといけない。なぜこの言葉を付けくわえたのか?この言葉をなくしても大丈夫か?なぜ?どうして?一方に読んで、片側はこんなに質問する気持ちが浮かんで、再三にわたって、やっと神の言葉に明かりがあることに気がつく。
  「ここに上ってきなさい、そうしたら」という言葉はそれなりの意味が含まれる。人間が地上で地上の事ばかり気になって、天に昇ったらやっと天の角度から物事を見て考える事が出来る。地上から見る事と全然異なると言う意味である。霊のある人間になりたければ、神の黙示がなければいくらたっても成りたたないので、神の事を認識してなければ、信仰の生命も成長できない。要するに霊の世界の存在を体験しなければ、その力強い信仰による生まれる生命力が伸びられない。だから肉体の事と聖霊の事をどっちに第一に考えることによって、信仰生命の成長も相当に異なる。
 主に従って、地上で、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである。(マタイによる福音書3:15)しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
 
 しかしよく見ると主イエス・キリストが三年半の間、天に居るように地上で福音を述べ伝えたが、主は言われた;
ヨハネによる福音書12:49わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
あの「わたしをつかわされた父ご自身が」―どこで言われたのですか?天である。主イエスは地上で語ったすべての事が天の父は天の上で語ったのです。天の上の話しで天の上で話せば、安全で殺されることもないが、地上で天の上の言葉を語れば、真実をかたるので、危険一杯です。
 マタイによる福音書23:33へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。23:34それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。23:35こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。
 
 ヨハネによる福音書8:44あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
 上記にある聖書の言葉を読んで、それもすべて天の父によって、主イエスをつかわされた父ご自身が、主の言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
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  もし私は集会の時に皆を悪魔と呼べば、恐らく来週の集会に来る人がいないでしょう。しかし主イエスが真実と真理を言われた時に、どんな状況が起こったか?
 ヨハネによる福音書6:60弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。6:66それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
 多くの弟子達が主イエスと行動を共に止めた。主イエスの天に属する言葉を聞いて、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と思ったからである。
 
  パン五つと魚が二匹によって、みんなにお分けになって、みんなはそれを食べて満腹になった。その後、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、主イエスを一目見る為に、彼らより先に着いた。
結局主は何を言われたのですか?
ヨハネによる福音書6:26イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
 主の言われた言葉は彼らにとってどれぐらい酷い言葉だっただろう、」きいておられようか。今の意味に訳すると、食う為に教会に来たではないかという受け入れがたい話しであった。主イエスは言い始めると、すぐでも人間の気持ちを暴く。毎回ここを読むとなんとなく笑いが浮かんでくる。主イエスは本当に人の光景に顔を立たなくて、遠慮をしらない。我々は主イエスと同じ言葉が言えるでしょうか?恐らく言えない。なぜなら地上にいるから。人間が常に人の顔色を伺ってから話すがしかも中々本音を言わない。
 
  兄弟達、ここに上ってきなさいと言う事を理解しなければならない。主に従って、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨て、そしてわたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 ヘブル人への手紙12:1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 
  主はヨハネに言われた「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」。最も重要なのは、終わりの一週(七年)のことである。ヨハネの黙示録によって述べる三件目の事は、終わりの一週(七年)のことで、その後、新しい天、と新しい地と永世の神の国まで述べる。
 ヨハネの黙示録4;2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
我々は御霊に感じれば、御座が天に設けられておることが見える。聖書を読む時と同じ様に御霊に感じされれば、聖書の意味を認識できる。さもなければ、いくら読んでも貴方は貴方で、聖書は聖書で、自分には役に立たない。だから百回聖書を読んでも、常に初めの声だと感じる。
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  聖書は御霊の言であり、そして霊であって、命である。御霊によって感じを私達にお与えになって、聖書を読む時に悟りが初めて開ける。世の中の知識と異なって、技能や専門知識など、読んで、練習すれば自然に旨くなるが、自分の努力次第で早く習得が出来る。しかし聖書はそうではありません。聖書に開眼したければ、先ず神の戒めを守り、善事を多く行い、神の国の福音を絶えずに自分の事の如く述べ伝える。その述べ伝える方法としては、人前でも人の裏でも構わないが、大事なのは誠心誠意である。聖書や神を認識できる資料やDVDや賛美歌のDVD等を大量に配ることも神に祝福される宣教方法の一つですが、又神の福音の為に努力する人であれば、聖書への勉強やお祈りも毎日に欠かせないことである。考えてみてください;入社してから何年立てば、幹部に昇進できるでしょう。特に神の国のことが御霊に感じをしたければ、より一層の努力や代価を払う必要がある。
 初めの声を聞いたヨハネがたちまち、御霊に感じた。そして、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあったことを見た。
人間が常に何が有れば、万が一に何があればという心配思想を持つのですが、もし何事でも、下記のようにすれば、心配事が有る筈はない:
 
 箴言3:5心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。3:6すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 3:7自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。3:8そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。

 御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあったことを見た。御座とは権威であり、全能者の神であることを認識し、その絶対的な権威を持つ神に私達の自分のことをお任せすれば、何の心配もなくなるではないか?こう言う強い信仰を擁するこそ、神の愛を得られる。なにしろ貴方の髪の毛まで神のご同意によらなければ、1本も落ちる事が出来ない。
マタイによる福音書10:30またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
世の中ですべての権威は神に有り、そして神の思った通りに必ず成り、定めた通りに必ず立つ。
 イザヤ書14:24万軍の主は誓って言われる、「わたしが思ったように必ず成り、わたしが定めたように必ず立つ。
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 母親が子供を産んで子を育てるが、「抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり」。
すべて神に掌握がある。
 道路の石にも「石を投げるに時があり、石を集めるに時があり」;服にも裂くに時があり、縫うに時があり;又自分の一生にも泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時がありなど。人間が泣く事が有るが、大いに泣くことなら回数が数えられるが、笑う場合;喜び、苦笑い、冷たく笑いなどがあり、すべて時があり、これは伝道の書3章にある。
 御座とは神の御座であり、伝道の章にある三章の通りに神はすべてを掌握するので、貴方が神を信じて、心配することが取り除ける。要するに、神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 ヨハネの黙示録4;2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
 ヨハネは御座を見ただけではなく、御座にいます方をも見たのです。ここから分かるように、神の権威は完璧でかつその管理も完全である。
 4:3その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。
 御座の権威はとてつもなく輝きで、御座の上にいます神は碧玉や赤めのうのように見える、また御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。にじとは、神の信実を語る;
 創世記9:12さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。9:13すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。9:14わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。9:15こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。9:16にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。
 人間が常に犯罪の生活を送るので、神は怒る時が有るが、虹が雲の中に現れるとき、神はこれを見て、神が地上にあるすべて肉なる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。
兄弟達この宇宙では最高な権力者は栄光の神であり、また御座のまわりには、緑玉のように見える虹が現れていた。虹とは神が地上にあるすべて肉なる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこして下さるであろう。
266

  神は約束を守る神で、慈愛を施すかみであり、にじを御座の周りに置かれ、虹を見る度に神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこして下さるであろう。
 申命記7:9それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び。
 聖書の中に多くの契約を述べていた。契約とは両方の責務を果たすことによって、共同で守りられる承諾である。
 
  マタイによる福音書7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
 もし貴方は神の御旨を行えば、神はまた御座のまわりには、緑玉のように見える虹を見て、それで貴方が天国へ行く事になる。これは聖書による教えである。
 人間の世界には契約が多いが、自分の利益の為によく嘘が付くことも数え切れないほどがあるのに、神は信実の神であり、神が言われれば、必ず成る。神と付き合いで、神の御旨を行えば、必ず賜りが下さる
 ヨハネの黙示録4:4また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
 御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老がいる。神は早い時期にこの24位の大天使を創造したので、長老と呼びます。二十四人の長老にはそれぞれの権威があって、頭に金の冠をかぶる。神の国はとてつもなく大きいがこの二十四人の長老の権威が相当であり、頭に金の冠をかぶる。
 しかし後になって、二十四人の長老;
ヨハネの黙示録4:10二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
  なぜそうなったのでしょうか?
 ヘブル人への手紙2:5いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。
 ヨハネの黙示録4章から神は今後起ろうとすること終わりの一週(人間の最後の七年)を教えてくださって、基督が再来のことを指して言うのである。
 ローマ人への手紙8:18わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。8:19被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
 基督が再来の時に、勝利を得る者があげられ、基督と共に王となる時にこの24人の長老が王の席を譲ることになる。なぜなら、神の子達が現れたのです。
ヘブル人への手紙1:14御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。
267

  御使たちはすべて仕える霊であって、救いを受け継ぐべき人々に奉仕するために、勝利を得る者に譲位をする。ところで、この24個の金の冠をかぶるのは難しいであろう。アブラハム、十二使徒、パウロ、ヤコブ、(イサクが分からない)、ヨセフが未知、モーセ、ダビデ、この二十四個の金の冠の残りがおおよそ五個か六個を異邦の民に残るだろう。マチンルーテルには殉道の決心があったが、殉道できなかった。異邦の民の大使徒の中に前に言った20世紀の初頭に有る中国のニイトウセイ兄弟の事ですが、主イエス・キリストに仕える為に考案に捕まって、15年の刑を言い渡されたが、ずっと主を否定しなかった為、二十年間も監獄に入れられたままで、死んでしまった。この兄弟が非常に苛めでかつ頗る悲惨な境遇で主の為に死にました。彼のメイの話によって、おじさんが血に染まった冠を持って、主に会えにいかれた。彼は非常に特別な一人である。
 二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、即ち政務運営と権威を持つ。白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶる;白い衣の意味は彼らの行いが完全で、創造された日から永遠まで、罪を犯した事がない。だからサタンがその中にいません。サタンの地位が元々最も偉い天使だったのに、神に逆らったので、天に居る資格が剥奪された。
下を読みましょう;
ヨハネの黙示録4:5御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。
268

  御座からは、大きな音が発していた。永世に時に、神の声が大きいのですが、今は人間に言う時の声が静かな細い声である。。

列王紀上19:11主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。19:13エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
 神は現世で静かな細い声で話しをかけてくださった。ちょっと目を覚まさないと、聞こえないので、容易く神の静かな細い声を聞き流してしまう。しかし永世の世界では、主が再来の時に様代わりになる。
御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。これは話しがもろもろの声と、雷鳴の如く、形容しにくい権威である。又七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。
神の七つの霊とは、ヨハネの一章にある七つの霊は七倍を強める霊である;完璧を意味する。この七つの霊とは七つのともし火が、照らす意味で、この霊が光で、神の言を言って解釈すると光を放つことになる。
ヨハネによる福音書6:63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
と言う事で、ダビデ王は言われた;
詩篇119:105あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
それもそうですが、なぜ教会を金の燭台と表す?金の燭台が光を放ち、中にともし火があって、このともしび火のつく原因は金の燭台の中に油がある。即ち「油」、【火】、『灯』、《霊》は聖書の中にある神の言である。
前には説明したが、ヨハネが御霊に感じてから、御座を見た。同様に御霊に感じ、神の言を述べれば、すぐでも光って下さって、兄弟達の心に神の言が染み込むようになる。
 ヨハネの黙示録4:6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった;この水晶に似たガラスの海とは何でしょうか?
269

  イザヤ書66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
  永世の世界で、新月ごとに、安息日ごとに、すべての人は主の前に来て礼拝する。
礼拝の後、主にそむいた人々のしかばねを見る。
ここで。ちょっとお聞きしたいですが;永世の世界で、すべての人は主の前に来て礼拝する。では御座はどこにありますか?
神の御座は新エルサレムにある;
 ヨハネの黙示録21:2また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
 神を崇められるなら、神の御座のある所へいかなければならない。新エルサレムに行かれる。では、イザヤ六十六章にある「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る」。即ち新エルサレムの城から出て、その城の外側にある水晶に似たガラスの海のようなものを見る。そして見たのはこのガラスの海―即ち火の池である。
ヨハネの黙示録15:2またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。
ここで勝利を得る者が主にそむいた人々のしかばねを見る。では、ガラスの海に何かある?聖書は火があると言われた。そしてなぜならガラスの海が新エルサレムの外側にあるのですか?見て見ましょう;
 ヨハネの黙示録22:15犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
 上記の聖書によると既に新しい天、と新しい地の事に言及していた。全地には完全に清めであり、なぜこう言った不潔の人達がいるんですか?これらの人々が既に火のけに投げ込まれて、永世の中に火の池が永遠に存続する。
ヨハネの黙示録に22章;犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
イザヤ章66章とヨハネの黙示録の21章に合わせて見ると;火の池が新エルサレムの外側に言明された。そしてヨハネの黙示録15章ではまたのまじったガラスの海のようなものを見た。ということによってガラスの海は火の池に当たる。
それでヨハネの黙示録4:6、イザヤ書の66:23〜24、ヨハネの黙示録21:2〜3、15:2、22:15の五け所の聖書を並べると、神は永世の中に新エルサレムの城外にガラスの海があって、火のまじったガラスの海で、ガラスの海から見下ろすと、こう言った犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者のしかばねである。
 新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる
270

  これも私は常に言い続けてきた火の池の博物館と言うものですが、本当にそっくりではないか。博物館に展示物も殆どガラスのボックスの中に置かれて、展示される。
永世で、火の池もガラスで中と外を隔離され、火の池に投げ込まれるサタンと偽りの予言者、邪霊、逆らう汚れの鬼及び現世で主イエスを信じていない人々がこの火の池の博物館に閉じ込められ、永遠に焼かれ、そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
兄弟達現世で自分で行うすべてのことが良し悪しにも関わらす、永世の世界になると、行ったわざが全部展示されるので、火の池の博物館がとてつもなく大きい。六千年前のアダムから、すべて墜落の人や、神を知らない人、神に逆らう人、嘘付く人、姦淫や殺人やごまかしを犯した人達が火の池に投げ込まれ、永遠に苦しむ。歴史上の暴れ皇帝も必ず火の池に居るが、歴代の法王も中に居るかもしれない;又偽りの牧師や長老や伝道人が全部居る。なぜなら本当に神を信ずる事ではないから、救いを得られない。ガラスの海が綺麗だけど、中には摂氏が二万度の火炎で、永遠に焼かれるのです。
続きまして;
ヨハネの黙示録4:7第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
  四つの生き物とは神によって創造されるすべての被創造物を表します。神の創造物の中に一類目:鳥類・二類目:野獣・三類目;家畜・4類目:魚・5類目:昆虫・爬虫類類・六類目:人間である。神の国の世界では、新しい天、と新しい地が臨む時に、この六種類の中に魚が存在されません。昆虫・爬虫類も恰好が悪いので消えてしまう。主な原因は蛇が神に呪われてから、爬虫類となってしまった。元々ヘビには脚が有るが、その名も龍と言い、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、神に呪われ、脚がなくなった。(創世記3:14)
271

  爬虫類の恰好が悪いし、恐れられ、尚ヘビがサタンでもあり、最終的に彼も火の池に投げ込まれた。(ヨハネの啓示録20:10)。と言う事で、永世に入ってから爬虫類もなくなる。だから神は最初に創造される六種類の動物が永世にはいって、四つの生き物だけ残る。四つの生き物には、鷹が鳥類を代表し、獅子が野獣を代表され、牛が家畜を表し、人類の顔が人類を代表する。そして四つの生き物もすべての被創造物の代表と言われる。
四つの生き物は神のいます天にも存在される。要するに四つの生き物が元々天に存在してあるので、神は天にあるこの四種類の動物の様子を地上でも同じように作られた。よく見れば分かるが、地上に獅子があって、海の中にも海の獅子がある。地上に犬があり、海の中にも海の犬がある。又鳥類のオウムにそっくり海のオウムも有ります。 だから地上の生き物や海の生き物を見れば、同じ創造者であることがわかるだろう。
  四つの生き物の特徴は四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。神は人類を創造する時に、二つの目だけを与えられた。四つの生き物のように前も後ろも目がついてなかった。二つの平行方向の目だけだから、物事を見る目も一つの角度しかできなかった。これこそ、人類としての私達が不完全な所である。一つの事情を見て、自己の経歴によって、人間としての直接判断と理解が生じてくる。しかし四つの生き物なら、私達とまったく異なる。四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていたので、一つの事情を見る時に色んな角度で見る。色んな角度から見られるので、完全に見通す事が出来る。
ホセア書7:8エフライムはもろもろの民の中に入り混じる。エフライムは火にかけて、かえさない菓子である。7:9他国人らは彼の力を食い尽すが、彼はそれを知らない。しらがが混じってはえても、それを悟らない。
真理も同じ両面があり、必ず徹底しなければならない。例えば;一方の長老として、伝道者にいい生活を提供ができるように努力し、もう一方の伝道者が苦難に耐える精神を持たなければならない。こそこそ聖書の両面の真理に一致する。
  我々はなぜ一つの事情に異なる見方があるでしょうか?それぞれの人間の生活環境と成長過程が違って、そういう個人の人格形成によって、自分の角度や感覚で物事を判断するようになる。四つの生き物のように神の前で一つ完璧の見方の立場が有りません。だから四つの生き物の特徴はその前にも後にも、一面に目がついていたことです。そして外だけではなく、内にも目がついて、人の心を読む事が出来る。
272

  母親の場合;自分の子供の状態をよく理解できる、気が短いが、思いやりがある。我々は人の外見の行為をみるが、他人の内在の心にも理解が出来れば、これが非常に成熟な智慧とも言えよう。
今日は教会の管理をする方もこのような智慧を擁するべきである。ある日王となって、権利を握る貴方が国民に対し、内外両面を認識し、どんな心のお考えを持つとみるべきです。勿論神も人の内外両面を見る。
だから四つの生き物とは、すべての被創造者が物事が分かるようになってから、神の御座の周りに居られる。彼は神の創造したすべてのものを表し、創造の完全を示され、それなりに智慧と見る目がある。
聖書の中に「七」を小完全を呼び、三+四の意味です。三は三一の神であり、万物を創造する三一の神+被創造物の四つの生き物の意味は「完全」である。神が人と共に住み、人は神の民となるので、これこそ完全でありますが、でなければ、人間の一生に幾ら豊富を得られても、依然空の空で、又空の空である。
ヨハネの黙示録21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
神が人間の中に入り込むこそ人が存在価値が感じられ、空の空でありを感じなくなる。神は人と共に住めば、完全が生じることになる。
三+四=七=小完全;三かける四=十二=大完全;十二かける十二=百四十四=絶対的な完全と言います。神はイスラエルにある勝利を得る者を選ぶ時に、十二支は各一万二千人ずつがいて、全部十四万四千人である。その外に二十四にの長老も十二かける2=二十四となる。聖書の中に十二には吉と言われる。
その外に神は宇宙の中に一人の配偶者を得ると決め、これも完全と言うが、男は独身がよくないので、一人の配偶者が必要です。
エペソ人への手紙5:31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
又四つの生き物が六つの翼をもっていた。
イザヤ書6:1ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。 6:2その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、6:3互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
  イザヤ書にあるセラピムとヨハネの黙示録にある四つの生き物は両者が非常に似ている天使であり、それぞれに六つの翼があり、神を聖なるかな、聖なるかな、聖なるかなと賛美し、聖書には言われたセラピムが、おのおの六つの翼をもっていた。
273

その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけりをする。その二つをもって顔をおおいとは、神の前で従いを示し;二つをもって足をおおいとは、体を隠しーアダムとエバが裸だった自分の恥ずかしさを分かってから、神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
  ニトウセイ兄弟の解釈によって、この六つの翼が何を意味するのかというと、我々は
神に仕えるのに、自分のすべてを人の前に晒すものではなく、三分の仕えの中に三分の二が静かな仕えに徹し、三分の一が人前でコツコツと仕えるのです。
二つの翼をもって飛びかけりをすると言うのは、働いて仕えることです。他の四つの翼がただ静かに主の前で、侍のように立つのです。自分の仕える事が他人に知られる必要がない。只主が分かって下されば宜しい。自分の主の間につながる立った主と自分だけ分かる。樹のように、その根が五分の4がよく見えない樹の根であれば、この樹が丈夫になるが、五分の四の樹の根も見えれば、台風に弱くなる。
聖書の教えによって、主に仕えて、66%の仕えが隠し、33%が見られても宜しい、主に従って、人の褒めを得るためではなく、四つの生き物のように、見習って静かに主の前に仕えればよかろう。前では紹介したように四つの生き物がすべての被創造物を表し、四つの顔を持ちながら、クリスチャンの完全な霊の命を代表される。
一番目の顔は獅子の顔で、敵に対処する時に獅子のように勇ましい。
二番目の顔は牛の顔で、クリスチャンが主に仕えて、苦労を求められ、世界に居る時の働きも我慢強く、牛のように素直に何一つも文句が言わない。大学の同級生がいて、田舎育ちで、小さい時のある日に、牛の車で、貨物一杯の牛の車に乗せ、目的地に向かった。上り坂まで来て、その牛が精一杯で引っ張って登るが、大変だったけれど、やっと山の頂に着きました。山の頂に着いた途端に、牛が疲れきって、膝が跪いてしまっても尚その余分な力で、牛の車を支えていた。だからこの同級生が一生に渡って牛肉を食わない事にした。牛が忠実の家畜で、苦しくても文句をいわない、言われる通り人間に仕える。
三番目の顔は人間の顔で、獅子のように勇敢で、牛のように苦労する以外にも、クリスチャンであっても人間らしく振舞う必要がある。大会社の社長となっても、大牧師となったとしても、傲慢すべきではない。有る牧師がトイレに言って、用をするが、その隣にある子供がいた。
274
 
 トイレから出てくる子供ですが、父親に向けて走って行った;お父さん、あの牧師さんも小便するのよと言った。子供が牧師のことを何と思い込んだでしょうか?主イエスが地上に居た時も小便するが、聖書に記載されていなかっただけでした。兄弟達、くれぐれも人間を神と崇められないように、これが絶対やってはいけない事です。
  四つ目の顔は鳥類にある鷹の顔で、超越を意味する。
ある日に我々は獅子のように勇ましく、牛のように苦労しても主に仕え、例え、批判されても、静かに反撃せずにいられ、そして挫けないくて、もっと力を入れて神に仕え続けて、鷹のように超越になる。四つの生き物とは、霊のある上に一つ重要な観念を持ち、即ち神の前で、我々に求めるのは;勇敢で苦労し、人間性に溢れ、超越である。
四つの生き物の特徴はその前にも後にも、一面に目がついていたことを通して、物事を見るのが、全面的な角度から見なければならない。内外面を見るだけではなく、前後でも見る必要がある。又他人の角度から測り、いつも自分の立場から物事をはんだんしないようにするべきであろう。はっきり言えば、四つの生き物が完璧のクリスチャンのように有るべきの姿が映るように被創造物がベストな状態になれれば、四つの生き物の光景になるのです。
その外に四つの生き物も四福音書を表す。マタイによる福音書は獅子のように王であり、マルコによる福音書は牛で僕を表し、ルカによる福音書は人間を表し、ヨハネによる福音書は鷹で神を表す。ですので、四つの生き物の四個の面は主イエスの四個の面とも言われる。
マタイによる福音書には主イエス・キリストの系図がある。ルカによる福音書は人を論ずるが系図があるが、マルコによる福音書は僕を論ずるので、系図がありません。それでヨハネによる福音書は、神をろんずるので、系図がありません。
マタイによる福音書で主イエスのことを王と論ずるので、系図の中に王ばかりを記載される;ソロモン王やヤラベアムなど、これは王の系図である。ルカによる福音書は主イエスががナタンの子孫であることを述べて、人の角度から書かれ、ずっとヨセフ、マリアの夫まで書かれた。ルカによるふくいんしょでは特に主イエスの人間性を描写する。
275

  四福音書でマタイによる福音書とルカによる福音書だけ系図があるが、マルコによる福音書とヨハネによる福音書には系図がありません。ヨハネによる福音書は神のことを論ずるのですが、神には系図がないのが当然ですが;
ヘブル人への手紙7:3彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
マルコによる福音書は僕を論ずるが、僕ですので、系図の必要がありません。昔の時代では、僕がどこかの家に売られれば、その家の財産となり、又名前の姓もその家の家主と同姓で、主イエスがマルコによる福音書には、系図がない、なぜなら僕として来られたのです。
マタイによる福音書とルカによる福音書の系図の記載によって、ちょっと勉強してみましょう。その異なる所の原因が何でしょうか?まさか違う人から生まれたか。マタイによる福音書では先祖のアブラハムから上〜下までのベルが、ルカによる福音書ではのマリア夫ヨセフから下から上まで述べる、両方ではダビデ以上の先祖の記載がまったく同じですが、ダビデ以下から、記載されるのが異なるのです。
マタイによる福音書1:6エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、1:7ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父。
  上記の聖書によって、すべて歴代誌と列王記の中にある王の名前である。
ルカによる福音書3:23イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、
しかし
マタイによる福音書1:16ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
  なぜマタイによる福音書では、ヨセフはヤコブの息子と言うのですか?ルカによる福音書に記載される3:23イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、3:24それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフであるが、マタイによる福音書1:15エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、1:16ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。お
上記の内容はただ名前だけの翻訳の違いであろうか?しかしマタイによる福音書のエレアザルとルカによる福音書にあるレビの違う名前を見ると差がありすぎるではないだろう。
一体この二つの系図の記載がどうなっているでしょう。ルカによる福音書に3:31メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、3:32エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナアソン。ダビデから遡って記載されるのもマタイによる福音書と同じである。
  ところでマタイによる福音書に有る記載はソロモンの子であるレハベアムです。ルカによる福音書にある記載はナタンの子であるマタタです。聖書は難しいですね;マタイによる福音書にある記載は王ばかりですが、ルカによる福音書にある記載は王ではな方ばかりであるが、なぜですか?
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  兄弟達 マタイによる福音書はヨセフの系図によって記載されるもので、ルカによる福音書はマリアの系図によって書かれるものであった。マリアはダビデの息子のナタンの子孫であり、ヨセフがソロモンの子孫である。しかし主イエスは御霊による孕むことで、ヨセフとは関係が有りません。聖書によって、イエスは「ダビデの子孫」と称するが、ソロモンの子孫と言わない。ソロモンがイエスの祖先と言えないがヨセフがマリアの夫と言いますが、アリアは御霊から妊娠したので、地上のイエスの系図で母親のマリアには関係が有るが、父親のヨセフにはかんけいがありません。
ソロモンが晩年の時に偶像を拝んで、主イエスとは無関係となって、そして彼の兄弟であるナタンが主イエスの祖先となった。ということで、イエスは「ダビデの子孫」と称される。所でソロモンでもナタンでもアブラハムの子孫であることには変わりが有りません。
もう一度下記の聖書をよみましょう
ヨハネの黙示録4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
  私達にとって、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。だから神にはできないことがありません。
ヨハネの黙示録4:9これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、4:10二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、4:11「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
  四つの生き物と二十四人の長老とは天使であり、彼らは神の救いの恵みを知らなかった。只神の創造の能力―全能の神を認識するだけですので、神に対する賛美の言葉について、神の創造を歌うだけです。
我々には神の創造の能力を見た事がなかったので、神を賛美する私達の言葉には殆ど神の救いの恵みを歌うだけです。なぜなら我々に与えられる経歴が神の救いの恵みであるが、神の創造を見た事がなかった。
277

  聖書にある天使から神への賛美はすべて神の創造を賛美するが、先ほど読んだ三節の聖書には典型的な天使の神に対する創造の賛美と言える。我々は神による創造でかつかみによる救われ、永世の世界で我々から神に対する賛美が天使より更に精彩であろう。
有る詩の歌の歌詞に「君はなぜ傷跡がないかしら」。もし貴方には傷跡がなければ、神の全能や神の慈しみや神の信実を表す事ができないでしょう。
278

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