聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)作者:呉明憲兄弟


第十四講―勝利を得る小羊であり


ヨハネの黙示録五章1~14節

5:1わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。5:2また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。5:3しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。5:4巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。5:5すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。5:6わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。5:7小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。5:8巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。5:9彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、5:10わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。5:11さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、5:12大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。5:13またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。5:14四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。


次を読みましょう
5:1わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。
お聞きしたいですが、巻物の内側にも外側にも字が書いてあって、その内容は何ですか?答えは七つの封印のないようである。七つの封印がどれだけ厳しいですか?
5:2また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。5:3しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。5:4巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。
 この巻物にあるのはヨハネの黙示録の第六章以降の起こる事を述べるのですが、その封印を開ける前にこんなに厳粛さ、重大を感じる。天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。勿論そういう資格が有る筈がなく、それは神の手の奥義である。これこそ今になってもヨハネの黙示録が多くの人にとって、閉じ込めることである。これほど重大な事である為、簡単にこの巻物を読んですぐでも理解させられることができないでしょう?御使たちさえその巻物を開ける資格がなかった。
ちょっと見て見ましょうか?どれぐらいの御使がいるでしょう?「11節;さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって」。ここにいるのが金の冠をかぶり長老と万の幾万倍、千の幾千倍の御使がいつが、ところで、この巻物持つのは御座にいます方、宇宙の独一の真の神様であり。万物を創造なさるヤウエイである。
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 巻物が神の手にあり、誰も勝手に取りにいけないのですが、又七つの封印が封され、七が完全と代表され、七つの封印を封されたことである。この巻物について色んな解釈があるが、ヨハネの黙示録だったのです。すくなくとも第六章以降の起こる事についての内容が含まれる。この巻物が少しずつ開いて行く内にヨハネの黙示録の奥義が少しずつ解かれ、終わりの七週に非常に重要な出来事が含まれるのです。
終わりの七週の時に、実に天国の福音が一つの奥密すあるため、主イエス・キリストは地上で福音を述べ伝える時にすべての人々にこの奥密をお知らせなかった。
マタイによる福音書13:10それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。13:11そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。13:12おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。13:13だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。13:14こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。13:15この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
ここで御使の言ったことばである;
5:2また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。5:3しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。5:4巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。
私達は非常に恵まれています。ヨハネの黙示録を調べられて、又この終わりの世代に居て
本当に神は憐れんで下さった。「天国の福音」について歴代多くの予言者、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。                    
マタイによる福音書13:17あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
多くの人々が上記の聖書を読んでもぴんとこないと思いますが、ヨハネの黙示録が読めるのはどれだけ幸運であろうと知るべきですが。しかしこの世代に非常に簡単で胸を打ってくれればよかろう。
マタイによる福音書11:16今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、11:17『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
今、私がこのヨハネの黙示録日本語に翻訳する時期は2010年の初めの頃であるが、今日は4月29日まで、この9け月で世界にわたって既に六つ以上の震度七の大地震が起こり、過去いくらでも年間二つ震動七の地震しかなかった。聖書に記載される次の御霊の言である;
世の終りには、どんな前兆がありますか;
マタイによる福音書24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。24:6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。24:8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
もしかしたらちっとも気にしない貴方だったかもしれないが、よく考えてください。貴方の一生には何か一番大事と考えてますか?日本の平均寿命が約83歳で、中国人の平均寿命が約73歳で、これは生活環境の違いによって生まれた結果であるが、でも幾ら長生き出来ても肉体の生命が終わりごろが来る。その時に一生に稼いだ金と栄光を極めた地位もすべて水泡に流してしまう。そして霊魂がどこに向かって行かれたのか?聖書を読みましょう:
伝道の書9:8あなたの衣を常に白くせよ。あなたの頭に油を絶やすな。9:9日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。9:10すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。
この節をもう一度よみましょう;9:10すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。
貴方の頭の考えには聖書只世間の一冊の本しかないと思うかもしれないが、そうではないのです。聖書は全世界最も売れるほんであり、なぜ売れたかというと;聖書の全部1189章の記載によって、737個の大きな予言があって、今までにその約98%の予言がすべて予言の通り成り遂げた。何千年前の予言も例えばイスラエルは約2500年前にバビロン帝国によって、滅ばされ、その滅亡される前の約2700年前に既に聖書のエレミヤ書やエゼキエル書によって予言され、又将来に国が必ず復興されると予言された。結局1948年、2500年前から歴史から消滅されたイスラエルが復興された。国連の五大理事国に同意によって、再建された。日本人の兄弟よ貴方は世界的に44以上世界ブランド商品を広げ、日本という名を馳せたが、それほど智慧と聡明があって手先が器用でもなぜイスラエルの復興に興味がなかったのですが、これは単に一国も問題ではないで、基督教はユダヤ人から伝えられ、神から人間に救いを差し伸べた。信ずるこそ貴方の霊魂が地獄行きに免じされ、神の国へ行けるようになるのです。肉体の命が空の空で、苦しい肉体の連続で、下記の聖書をよみましょう;
伝道の書9:3すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである。9:4すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。9:5生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。9:6その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。9:7あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。神はすでに、あなたのわざをよみせられたからである。
この本の作者台湾の呉兄弟の長い間の負担はこの神から下さったヨハネの黙示録を世界の人々に述べ伝えたいと思い、あっちこっちで頑張って述べ伝えられたのですが、神から彼に間違いなく永遠の恵みがあるように。
しかしノアの箱舟の事ですが、百年にわたって神の福音を訴えたが誰も聞いてくれなかった。只彼の家族だけで、家族だから福音を聞かなくても一緒に箱舟について行くではないか?
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当時のノアが人々に神の救いを述べ伝えても洪水が来るよと言っても、誰も信じてくれなかった。もしあなたが人々にノアのように幾ら伝えても聞いてくれる人が一人もなければ、どうする?気を落としてしまわないでしょうか?結局ノアの言われたとおりに洪水が来た。
我々はヨハネの黙示録を伝えられて、あの今後起ろうとすることを述べ伝えますが、今伝えることも必ず臨むと言いきる。でも聞いてくれなければ、どうにもしかたがないが、でも本当にノアの箱舟と同じ様にヨハネの黙示録の言われる事が起こる時に結果も見えるではないか。もしかしたらノアの箱舟の事も信じていないでしょうか?では歴史と考古学の検証を勉強してください。心配するのは貴方が勉強しようと言う行動が有るかないかのです。ひとが常に目の見える利益に向けて努力するが、利益にならない事には中々向けはしないが、実は肉体の世界と霊魂世界の相反対である事に気を付きなさい。くれぐれも本当の賢明になれるように。
5:1わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。
御座のいます方を私達の目が見えるように、御座は宇宙に渡って最も権威のある御座であり、その御座にいます方は宇宙に最高な権力者であることを認識できるようにお祈りましょう。
5:2また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。
ひとりの強い御使なのに封印をとくことができないので、誰か封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっていた。
5:3しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。
使徒ヨハネはこの神の幻を見た時に人がこの巻物を見る事が出来なくても御使いができるだろうと考えたが、まさか御使いでも見ることができない、本当に奥密である。
例えばサタンの事ですが、彼は墜落の天使であるが、神の権威によって多くの天使も奥密を知らないのであろう。有る時に口寄せや占い師が人の運勢をいくつか正確に判断する事が出来るが、人の運勢が判断できる場合もできるが、全部出来るとは難しい。なぜならこの世に知識による人の運勢を判断する口寄せや占い師がいるが、悪魔に霊魂を売り払って、悪魔の教えによる口寄せや占い師も居る、その悪魔でも人の運勢を全部知る事が出来ないのだ。又主イエス・キリストの御名によって、洗礼を受けることのクリスチャンの場合、占い師の陰陽の目や悪魔の教えによって、クリスチャンの周りに汚い邪霊の霊が付きにくいというのです。日本人の兄弟よ、死んでから誰でも佛になれいる者ではない;これは只サタンの欺く言葉であるので、考えて見てください、人間の世界でも霊魂の世界でも善悪が区別され、人としての時に二つの御血が選べるが一つはイエス・キリストを信ずる事を選び、もう一つは別の宗教を選ぶか?何も信ずる事がない人生を選ぶとか?主イエス・キリスト以外に道であれば、すべてサタンの道になることを理解できるように賢明にご判断をしてください。
以下の聖書をもう一度理解できるように読みましょう、天使でも悪魔でも神の奥密や人間の運勢を知らない所があるのです。
5:2また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。
どうしてヨハネの黙示録はそれほど重要でしょうか?それは神である主は今後起きようとすることを黙示する為にヨハネの黙示録の重要さがご存じであろう。こんなに重要なことで、巻物に七つの封印のをして、神は我々に直接臨んで黙示して下さらないので、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。
5:4巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。
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  以上の使徒ヨハネの激しく泣いていたことを読むと、恐らく泣く必要がないでしょと思うが、使徒ヨハネがこの光景を見て泣きました。なぜなら神の奥密が誰でも知らないから?なぜヨハネの黙示録にある基督の再来がわからないとか;ヨハネは頗る負担が有ったので、激しく泣いていた。
使徒ヨハネがヨハネの黙示録を書く時に既に96歳となったがローマ皇帝が彼を油の釜に投げ込んでも、彼が死んでいなかった。仕方がなくパトモスという島に追放された。しかもヨハネが油の釜に投げ込まれても泣かなかったが、パトモスという島に追放され、神の幻の見た時に激しく泣いた。
ヨハネの黙示録1:9あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
パトモスという島は悪魔の島より酷い所だった。当時のローマ帝国の監獄環境を考査して見るともっと悪い条件であった。ネズミ、ゴキぶり、暗い、汚れ、湿気っぽい、悪臭など挙げるのがきりがない。一人の96歳の老人であれば、あんな所に居ても健在に生きられて、尚明るく言われた;あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
この言葉を言った時でもヨハネも泣いてなかったが、ヨハネの黙示録の第五章に及ぶと神の七つの封印を解く人がいない事に気がつくと激しく泣いた。
兄弟達我々は使徒ヨハネのような考えを」持たないであろう;主の言葉を理解できない時に焦らないでしょう?もっと酷いのは聖書を調べなくてもよかろう、只祈りだけでよいと言う人が教会の長老にも成れば、教会にとって悪い知らせではないか?
使徒ヨハネは神の七つの封印を解く人がいない事に気がつくと激しく泣いた。彼にとって大きな負担があって、その負担と言うのは何でしょうか?愛である。願わくは私達もヨハネのような気持ちが有るようにお祈りましょう。でなければ神は発って起こす事がしないであろう。
今日は良い機会があって人々に天国の福音を述べ伝えられる負担があり、どうしてもこの福音を人々に分かってもらいたいのです。この終わりに近づく世の中で、この福音を知る方が少なさすぎるので、心に大きな負担があって、もし真面目に福音を述べ伝えなければ、もっと少ない人しかこの福音をしらないであろう、そうなると私には災いがあるのではないか。この心情がヨハネと同じ様にあるが、ヨハネの心情が百倍も重い。「巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。」泣いて意味が有るのか?大いに効果がある...引き続き下記を読みましょう。
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  5:5すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
前で読んだ;天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。では誰かその巻物を開き七つの封印を解くことに相応しいでしょうー主イエス・キリストである。ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたがその巻物を開き七つの封印を解くことができる。イエス・キリストの系図から分かるようにそれは主イエス・キリストである。

創世記49:8ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。49:9ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。49:10つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。
上記の聖書の内容はヤコブによる十二個息子に祝福をする時にユダに祝福した言葉である。ヤコブは霊の有る人ですので、将来の事に詳しいのです。「シロの来る時」とはキリストを意味する。
「つえ」・「立法者のつえ」は王となることです。ここでの意味はキリストの来るまで、もろもろの民は基督に従う。
ヤコブは創世記にあるユダへの祝福によって、彼が獅子の如くを言いますが、ではヨハネの黙示録では「ユダは、ししの子であり」は主イエス・キリストを指して言うのです。聖書の記載によるとヤコブがエジプトにはいるのは、百三十歳の時で、この予言をした時に百四十七歳で、予言をしてから間もなく亡くなられた。ヤコブはレビを生み、レビがコハテを生み、アムラムを生み、アムラムがアロンとモーセを生みました。前後四百三十年に渡って、アロンとモーセがイスラエル人を連れ出した。
モーセが八十歳の時にイスラエル人をエジプトから連れ出した後、モーセ五書を書きました。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記である。上記のヤコブの予言はモーセによって、この時期に書き出来上がったのです。即ち使徒ヨハネがヨハネの黙示録を書く前に、1600年前にモーセが創世記を書きました。
創世記とヨハネの黙示録の間に1600年の開きがあって、イスラエルの歴史について、詳しくない人であれば、歴史の証拠を見れば、必ず見つかるが、疑う余地がない。こうなると、この二人が述べる主イエス・キリストのことについて、前後相応となって、同じ内容が述べられていた。これが異なる時代の人間によってできる事ではなく、間違いなく全能者の神の技である。だから聖書を読めば読むほど神に信仰が強める。

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  ヤコブがユダに祝福を与えたように文字を読んでも何も分かっていないが、ずっと主イエス・キリストが臨むまで、その歴史の証拠によるこの言葉意味を「シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」分かるようになる。
王となることを表明しなかったが、次の言葉は王と成る意味である;「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく」。つえと立法者のつえとは、王としての玉と命令するしるしのことを意味する。
ヤコブとはいつの時代の方ですか?今から三千七百年前の方ですが、まさか二千年後の主イエス・キリストの誕生まで分かるだろうか?又ユダ支派から王となる方が出ると予言できるでしょう?ヤコブの予言がまだ未実現されるのは「もろもろの民は彼に従う」だけ残る、これも主イエスが再来の時に成就されるのが間違いない。
聖書の予言に合わせると、予言の適中を照合し、是のように見えても、また非のようですが、実に聖書にある予言であれば、少なくとも2回か3回を繰り返し、一回が暫くの適中ですが、もう一回が永遠の適中となる。ヤコブがユダに祝福を与えたように「シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」1回の適中はーシロの来る時までに及ぶであろう。もう1回の適中はー「もろもろの民は彼に従う」主イエス・キリストが再来の時である。だからヤコブが言った言葉の完全適中がこの世の終わりの頃になるでしょう。
アブラハムは紀元前2008年生まれ、彼は紀元前1908年に百歳の時にイサクを生み、イサクは六十歳の時にヤコブを生み、即ち紀元前1848年で、そしてヤコブは147歳の時に子供らに祝福を与えられた。その中にユダへの祝福につき、主イエス・キリストがユダ支派より出てくることを予言した。この予言をした時に紀元前1700年で、要するにこの予言が今から3700百年前のことでした。
3700年前の人が1700年後のことを予言出来るのは、神はヤコブを通じて、その予言をさせたし、又モーセを通して、この創世記を書きました。人間の頭がピント来ないと思いますが、不可能だと思うだろう。しかし御霊が誰に満ちれば、神の幻がよく見えることを体験した事がない人であれば到底理解できないだろうがこれは信実で疑う余地がない。又世界的な証拠があるので、歴史を調べて勉強すれば分かる。
ところでこの言葉をもう一度見てください;「シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」 半分が既に時期が来て、適中されたので、後の半分も時期が来れば間違いなく予言の通りになるだろう。通常の言い方ですが;「安心して見てくださいと言いたいが、」ここでやむを得ずに違う言い方で、「不安して見てください」。なぜならこの言い方でしょうか?貴方はよく考えて、まだイエス・キリストを心より信じていない方であれば、間違いなく地獄行きになり、永遠の苦しみを受けるだろう。信仰と言うのは人間の大人にとって難しいことですが、14歳以下の子供にとって容易く信ずる事が出来る。なぜですか;単純かつ素直と言う事は極めて大事です。大人が複雑で、考え過ぎ、生活の為に苦労し大変な日々であり、子供なら、複雑なし、考えすぎない、生活の為にはた働く必要もない。しかしもっと深刻を考えてください;数千年前の予言によって数千年後が適中され、これこそ神であるのは間違いないことが証明できるので、もしちょっとだけの理性があれば、想像してみてくださいー聖書にある天国と地獄が間違いなく本当だと分かるはずだ。本当の事が判明されれば、すぐさまに悔改めをしなければ、どうなるか目が見えなくても、心が自分の霊魂の行き場がどこか分かるはずです。必ず強気にしない方がよいですが、強ければ強いほど、救われる機会が減る一方で、何しろサタンも貴方をVIPとして地獄へお迎え入れたいから、「呼び名:VIP地獄超音波電車」―貴方は本音で主イエス・キリストを信じていなければ、貴方の肉体生命が最後の行きを引き取る瞬間、「VIP地獄超音波電車」があなたを地獄のトンネルまで運んで行かれる。その時から肉体生命の時に、受けた事がない苦しみと酷さを自分の霊魂で受けることになる。ここで言い愚驚かすつもりがないが、事実です。
実に聖書は予定論であるが、(伝道書三章を参考)。「予定論とは神が決めた結果の通りに向かって動く事」。そうでなければなぜ予言の通りになるでしょうか?聖書を読めば読むほどはっきり分かる。誰か聞くかもしれないが、聖書を直した事がないか?これも聖書を知らないから聞いた;1600年にわたって書く人さえその意味を知らないで、どうやって直せるか?又考古学や歴史の照合によって、聖書は世界最も完璧な保留を達した文献である。又聖書の創世記からヨハネの黙示録まで一貫して矛盾がなかった。
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  もう一つの絶対条件があり、神は自分の言葉を守ることによって、誰でも勝手に直させたり、削除させたりすることがないので、神である主です。
次に「ダビデの若枝であるかた」―神はダビデにわたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。7:13彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしようと承諾した;
サムエル記下7:12あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。7:13彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。
上記の聖書;「彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。」このー彼はわたしの名のために家を建てるー誰を意味するでしょうか?勿論ソロモンの事ですが、もう一つ主イエスは神の名の為に家を建てたでしょうか?勿論建てた。私達教会の兄弟姉妹達を建てました。下記の言葉―「わたしは長くその国の位を堅くしよう。」何を意味しますか?勿論主イエスの事である。
兄弟達この言葉の真意は「彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。」ソロモンが影で主イエスこそ本間です。ソロモンを予定の表現と言い、主イエスが永遠の実際である。だからヨハネの黙示録にある「ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが」−この二つの言葉しかないと思うが、旧約聖書に既に記載されて有るだけではなく、予言するスケール幅が広いのです。

続きまして、読みましょう
サムエル記下7:14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。7:15しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。
以上の言葉がソロモンを指して言われた。しかし次を読みましょう;
7:16あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。
16節のことばこそ、主イエスを指して言われたが要するに聖書にあるダビデの子孫は主イエスである。
先ほど神はダビデに承諾した:わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。以上の言葉を主イエスを指して言われた事によって、そして基督は神の名のために家を建てる。
では主イエスはどうやって神の名の為に家を建てるでしょうか?
マタイによる福音書26:61「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
主イエスによる言葉の意味は自分の体を神の家とする意味です。そして後になって創られる神の家が神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
ペテロの第一の手紙2:4主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。2:5この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
兄弟達 我々は生ける石で霊の家に築き上げられ、御霊のいる所になる。そうなる私達が本当に神のいる所である。人の手によって創られる神の宮なら神はそれを必要としない。神にとって必要なのは私達の聖なる体を霊の宮としよう。
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この宮は何でしょうか?
ヨハネの黙示録21:2また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
主イエスはこの聖なる都、新しいエルサレムが創られた。別の角度から見れば、我々は基督の体であり、すべての男のかしらはキリストであり;
コリント人への第一の手紙11:3しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。
コリント人への第一の手紙12:27あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
だから主イエスはヨハネによる福音書にある言葉ですが、この宮を壊されても、私は三日以内にそれを再建されるであろう。この三日とは主イエスが十字架に釘付けられ、死んでから三日後甦られることを指して言われたのです。甦る彼の体が聖なる宮である。
聖書は四〜五十個世紀に跨って、主イエスのことに関する一つの事情を語って、その最後の結果がまだ表していないが、残る時間が多くはありません。聖書の予言に関する成り行きを知らない人であれば、早めに勉強し、教会の牧師や宣教師に教えをお願いすれば、必ず主イエスは真の神であることが分かる、そして自分の霊魂がどこへ行くのか?肉体生命の有る内に早めに本音より主イエスを信じて洗礼を受けなさい。
もう一度5節を読みましょう;
5:5すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。

ヨハネの黙示録5:6わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。

長老のひとりがわたしにユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、その巻物を開き七つの封印を解くことができると言ってから、ヨハネがすぐでも六節の神の幻を見られた。「御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、小羊が立っているのを見た。」「ほふられたとみえる」
これはどんな意味ですか?人間がほふられたらみっともないでしょう?人間の顔や体に傷跡があれば、常に化粧品や手術でそれを隠し或いは取り除く。なぜ永世になっても主がほふられたとみえる、おそらく主の十字架の釘傷が永世までずっと残されるであろう。
この聖書の言葉について、深い感覚を持たさせられた;イエス・キリストの苦難こそ、天国にいる本間のしるしではないかと思った。それは愛のしるしで、苦難のしるしである。だからもし主に従っていても傷跡がなければ、永世に何を持って入るでしょうか?もし皆が自分の傷跡を示せば、どうでしょうか?
コリント人への第二の手紙11:22彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。11:23彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。11:24ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
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11:25ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。11:26幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、11:27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。11:28なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。11:29だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。11:30もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。

ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ユダヤ人の法律に毎回の鞭打ちで、多くても三十九鞭まで、四十鞭を超えることができない。パウロが鞭をうけたのが最も重かった。シンガポールには鞭打ち刑があり、一鞭打ちをされれば、気を失ってしまいそうになるが、パウロがそのように三十九鞭まで鞭打ちをされ続けた。それでも5回があった。しかしその鞭打ちによって残る傷が永世で見られれば、羨ましがられると思います。
使徒ヨハネが油の釜の内に投げ込まれ、唐揚げにされていなかったが、全身の皮膚にも必ず焦げてしまうではないか?永世で、この焦げる体のある部分が暴君ナイルの一ツルの声によって、油の釜に入れられてそして焦げた部分を指して教えてもらうでしょう。だから使徒ヨハネは言われた「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、」
もし今の私達は主の為にちっとも迫害を受けた事がなければ、クリスチャンとして、そんな価値があるでしょうか?
ニイトウセイ兄弟が詩の歌を書きました。その内容は主の救い恵みを賛美する歌である;「神の顔は御使いガ常に拝めるが、神のの愛を知らないけれどーヨハネの黙示録にある御使の拝みがいつも「聖なる、聖なる、聖なる」を繰り返す。御使いが神の愛を知らないのが神は彼らの為に十字架を釘付けにされたことがなかった。その詩の歌には聖徒達が神の愛限りなく広大さが分かるが、神の風采を見た事がない。我々は主の愛をしるが、主のご様子を知らない。彼らはまもなく主の顔がみえるようになり、主の栄光を認識するであろう・
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  クリスチャンとしての感動が神への賛美が実に素晴らしい感激の連続と言えよう。天使は常に神のことを賛美し、聖なる、聖なる、聖なるを繰り返し、その変化が有りません。しかし;ニイトウセイ兄弟のような神の為に生き、試練に直面しても逃げはしない。又苦難に忍耐強く、神との繋がりが苦難を通じて、甘みが感じられる。そしてその苛め、脅迫、殴られに会うたびに、神の憐れみによってより主への忠実を強めた。その一つの名言は将来への期待が強すぎるため、将来になってかえって今日の好い機会を見逃し
推測かもしれないが、もしかしたら神は御使いの賛美の声と内容を聞いても既に厭きたかもしれないが、聖徒達の賛美であれば、完全に違います。主イエスはラザロが死んだ時だった。

ヨハネによる福音書11:20マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。11:21マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。
11:32マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。
そして11:35イエスは涙を流された。11:36するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
マリヤは人間が神への不信の為に主イエスが涙を流したことをみたことがあり、人間にはもし失敗と挫折を経験した事がなければ、主の苦難をどうやって理解できるだろう。私は一年余りに咳をし、酷い咳で正常に話せなかったし、賛美の歌もできなかった。ある日主に再度私に歌を歌えさせてくだされば、わたしは必ずしっかり主の言葉を述べ伝え、そしてもっと讃美歌で神を賛美します。
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ヨハネの黙示録5:6わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
ほふられたとみえる小羊と言いながら、それに七つの角と七つの目とがあったー七倍の御霊を強めた。「神の七つの霊である。」極大きい能力がる。七つの霊とは聖書の中にいくつの話し方があります;

ヨハネの黙示録4:5にある七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。ここで七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、神の七つの霊である。
聖書では神の七つの霊に関する表現の表しですので、このまま理解すれば宜しいと思います。聖書自体が解釈したのだから。
 ここで先にイエス・キリストは「ほふられたとみえる小羊と言いながら、次に主の権威の七つの角と七つの目とがあって、即ち、神の七つの霊である。」その後これらの目は、全世界につかわされたと言われた。
なぜなら主イエスを小羊と将来するのか?旧約聖書レビ記の時代に神に奉げる時に小羊が使われたので、主イエスがこの世に来て、小羊が御座の前に立つと表現する。
「わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。」
ヨハネによる福音書1:29その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
言い換えれば;旧約聖書レビ記にある小羊を奉げる儀式というのは、新約聖書にある小羊イエスのことである。
もし誰か、主は再来の時に旧約聖書時代の人間が律法によって裁かれると言うかもしれないが律法による裁きであれば、誰でも義人と成れるものが居ないではないか?もし本当にそうなったら、大祭司が聖所に入る時にその血を垂幕の内に携え入りする必要がなくなるでしょう。大祭司が聖所に入る時に民のための罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入り、その血をかの雄牛の血のように、贖罪所の上と、贖罪所の前に注ぎ、しかし牛と羊の血が贖罪できない。贖罪用の牛と小羊が只主イエス・キリストの表しであり、もし主イエスは十字架に釘に付けられなけらば、牛と小羊の贖罪の血がいくらあっても役に立たない。
レビ記16:15また民のための罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入り、その血をかの雄牛の血のように、贖罪所の上と、贖罪所の前に注ぎ、16:16イスラエルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪のゆえに、聖所のためにあがないをしなければならない。また彼らの汚れのうちに、彼らと共にある会見の幕屋のためにも、そのようにしなければならない。
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  人の罪が取り除かれ、許され、主イエス・キリストが十字架に釘付けられた為だった。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
神の小羊は世界の人々の罪の為にこの世にいらしたのである。小羊が殺され、即ち主イエスが十字架に釘付けられたことによって、旧約聖書時代の人々が一緒に救われたのです。と言う事によって、旧約聖書は小羊を通じて新約聖書の十字架を予知するが、今の私達は信仰によって旧約の小羊―十字架を見ること、両者が同じ意味です。
旧約聖書の人が十字架の観念を持っていないが、小羊の観念があるので、贖罪の奉げの時と過越の祭の時に小羊の血を使わなければならない。又エジプトの夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた時に使用される血は小羊の血であった。
出エジプト記12:4312:21そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。12:22また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。12:23主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。

一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。エジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。即ちその小羊の血は主イエス・キリストの表しであり、あの血がなければ、貴方に裁きが臨むだろう。
当時エジプトの夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれたが、主は再来の時に小羊の血によって守られていない方であれば、第二度目の死を受けることになる。旧約時代に神を信ずる人々とユダ教も救いを主イエスのちによって救われた、新約時代の基督教会と同じように救われた。下記の聖書を読みましょう;
ヘブル人への手紙9:15それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもと(旧約聖書)で犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

5:9彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
あらゆる部族、国語、民族、国民の中からという人々は主イエス・キリスト誕生の前に含まれる。そして主イエス・キリストを信ずる人であれば、神であるヤウエイに属することになる。もしそうでなければ、十の戒めの第一条が成立できないだろう。旧約時代の信者が飛び上がって主の公義と信実はどこにありますか?と不安に言うだろう。シナイの荒野に居た時にかみなりと、いなずまと厚い雲とが発し、十の戒めを宣告され、垂幕の内に小羊の血を携え入りする必要がある、細かく教えてくださったのに、言われたままに守りとおした信者だが、なぜ最後になって、永遠の命が頂けないですか?
もう一度下記の聖書を読めば、神の公義と信実と慈しみが理解できるだろう。
ヘブル人への手紙9:15それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもと(旧約聖書)で犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。
旧約時代と新約時代の人々が主の再来の時に律法によって裁かれることがない。
ローマ人への手紙3:20なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
聖書によって多くのところではっきりしているが、「血の気の人間は律法を行って、神の前にに義と呼ばれる人が一人もいない。
律法には規則文だけではなく、牛と羊の血にもある。大祭司が極上の好い人であるが、聖所に入る時に羊の血が携え入りしなければ死ぬことになる。だからその牛、羊の血によって大祭司の不足分を許される神の表われであり、律法は最後まで血によって行われて得るもので、絶対に律法を行って得られるものではないのです。
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今のイスラエルの律法は依然として血によるものであるが、イスラエル人にはよく分からない事ですが、イスラエル人は常に律法の規則によるものだと思っている。事実上、人間であれば、律法の規則を完璧にクリアする人間が一人もいない。最終的に小羊の血に依らなければならない。そうでなければ、聖所に入ることができない。さもなければ旧約聖書では、なぜイスラエル人に聖所の中にあちこち血を塗らせるのですか?又祭壇の四つの角に血を塗って、大祭司の手足の親指にも血を塗る必要がある。人間の手脚による行いがすべて罪となり、口で言うこと、心で考える事もすべて罪とみなすので、神の血によって罪を遮断されなければならない。ということによって、律法が有効とすれば、血が有効になり、律法の規則が有効するものではない。
5:7小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。5:8巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
ヨハネの黙示録の意味が解明されることについて聖徒のお祈りに大いに関係が有る。歴代聖徒達のお祈りがこの時刻の為にもある。その日、四つの生き物と二十四人の長老とは立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
5:9彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
私は常にいいますが、この世で音楽学習した方であれば、もっとも価値が有ります。なぜかというとこの世のすべてが必ず過ぎ去って、空となり、ただ音楽を学んだ方なら、空となりません。永世まで必ず音楽ののみが使われる。
その日、おのおの、立琴と、恐らく各種類の竪琴ではないか?天に属する管弦楽の演奏であろう。
想像して見て見ましょう;その日で主は一旦その巻物を受けとって、四つの生き物と二十四人の長老とはおのおの、立琴と、あっと言う間にorchestraは直ちに音楽を起こすと奏して、このようで、ピアノで伴奏し、それから聖歌隊が新しい歌を歌う。実に言えば今の世にあることが天には既にあって、ヨハネの黙示録にも詳しく記される。例えば、香の満ちている金の鉢のことですが、人間でもやっているではないか?
引き続きまして;「彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、」
上記の賛美と前の賛美が少し変わって、前の「聖なる、聖なる、聖なる」と異なって、ますます後の行った賛美が、ますます深く入ることです。
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 私達の礼拝賛美も同じように深入りしないと、主が地上に居る時に我々の為に受けた苦難を歌い出さないといけない。聖徒達にもっとこの事を常に心にしまっとく。
だからここで新しい歌を歌う神の幻は、絶対にヨハネ時代の神の幻ではなく、それが2千年後神の幻を早めにお見せした。
5:10わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
だから私達は選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。
ペテロの第一の手紙2:9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
我々は祭司であり、王でもある。イスラエル人の中に最も上にあるのが王で、先知、祭司で、永世の中にこの三つを一つになる。
使徒行伝5:31そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。
主イエスには王国を長く保つであろうか?王権は長く堅うせられるでしょうか?
サムエル記下7:16あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。7:17ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。
先知のナタンはこの神の黙示をそのままダビデに告げられた。
主イエスも同様に神の大祭司である;
ヘブル人への手紙7:17それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。
主は予言者であるが再来の時に予言者の性質に必要がなくなり、この職分がなくなったが王と祭司の職分が共に与えられて、将来の我々は地上を支配するに至るでしょう。
だから主は「ほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、」これらの人々はわたしたちであり、わたしたちの神のために、私達を御国の民とし、祭司となさいました。私達は地上を支配するに至るでしょう」。
私達は十字架以後、十字架のイエスを信じてから救われたもので、信仰をもって、旧約時代の十字架を見る;旧約時代の聖徒達が信仰によって、神の信実を仰ぎ、そして将来への期待を膨らみ、その信仰の奥には神の言を深く切り込んでいた。その心の奥に目が見えない十字架の栄光(神の栄光・小羊)を仰ぐのです。
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 5:11さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、5:12大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
ヨハネの五章11節から14節まで描かれている主はその巻物を受け取ってから、天、神の国で、一切の栄光の表しである。天と地の差=月とすっぽんのいみで、その巻物はヨハネの黙示録であって、小羊はその巻物を受け取った時に、天の反応は賛美、栄光であって、地上の反応がそれを読まない、軽視する。
五章の8節から10節まで、四つの生き物と二十四人の長老達は小羊が巻物を受け取ったことを見ると、すぐさま賛美が開始した。更に多くの天使―その数が万の幾万倍、千の幾千倍もあって、5:12大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい
ヨハネの黙示録5:13またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。5:14四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
その神の幻の一部始終は次のように
ヨハネは御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。そしてひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、ヨハネは激しく泣いていた。5すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。ヨハネはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またヨハネは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
上記の神の国による伝えた賛美は地上で中々見当たらないのではないか?
多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。引き続いて 天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
四つの生き物アァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。賛美は再度四つの生き物と唱え、二十四人長老たちに戻り、このような耀く賛美の後、小羊が七つの封印を開け始めようとする。
実に言えば鬼が人間より神を認識している、この世で人がハンカチのような覆いによって、しっかり遮断されたのです。ヨハネの黙示録を読んでから数十回もあったのですが、いくら読んでも意味が分からなかった。努力し続けるとやっと神の憐れみがあって、光照らして下さって、七つの封印を開く意味が理解出来た。そして天上に置いてもこのような巨大の場面でもめったにないだろうと思う。
多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。引き続いて 天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
このような賛美音が核ミサイルの爆発の音に似たようなもんではないか?この賛美は御座にいます方の手から小羊がその巻物を受け取って、そして七つの封印を解く事が出来ることによるものですので、願わくは神からの祝福が有るようにそして神をもっと認識できるようにおいのりましょう。
コリント人への第二の手紙3:16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
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