聖書ヨハネの黙示録講義(下)作者:呉明憲兄弟


第二十三講―神のさばきの時がきたからである



聖書ヨハネの黙示録

第14章

14:1なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。14:2またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。14:3彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。14:4彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。14:5彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。14:6わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、14:7大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。14:8また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。14:9ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、14:10神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。14:11その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。14:12ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。14:13またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。14:14また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。14:15すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。14:16雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。14:17また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。14:18さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。14:19そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。14:20そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。


先に13節を読みましょう;
14:13またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
「彼らはその労苦を解かれて休み」とは一つの預言であり、人間には、主にあって、主の戒めを守る人と、主に忠実に仕える人、主の救いの福音を受け入れ、堅く信ずる人であれば、死ぬ死人はさいわいである。
121稼いだお金がいくら有っても、持っていけなく、子供も連れて行けないし、又学問も役に立たない。あらゆる美しいものでも何一つを持っていくことが出来ない。只持っていけるものであれば、「そのわざは彼らについていく。」だから、主の為に頑張るべきで、主に尽力すれば、水の泡にならない。本書の17節〜20節目で、ハミギルトン戦争を論ずる。十三章で、既に敵キリストの出現によって、聖徒たちへの迫害を加えたり、現金制度を廃止すると言及しました。
七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。大いになる都の下に七つの山が有る
前ではその死ぬほどの傷を受けた人が七つ目の頭であると説明した。この七つ目の頭が殺されてから、ある魂が彼の体につけ込み、その魂が「昔はいたが、」即ち五つの頭(人)のロマ・シザ皇帝のことで、「今はおらず」というのも、この五つの頭(人)が既にヨハネの生きる時に、死んでいた。ヨハネの時にいたのが六人目の頭(人)で、即ち六人のシザロマー皇帝のことである。
七つ目の頭がまだ来ておらずだった。(ヨハネの黙示録17章)。その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。前で延べた第一位から第六位までの頭が死から甦りがなかったので、第七つの頭の出現が恐らく、ヨーロッパ連合の主席が出現した、恐らく三十年以内で、最後の一週に突入することになるだろう。
ヨーロッパ連合即ちロマ帝国の復興や、ヨーロッパ連合主席の出現によって、イエス・キリストが一つ再来の象徴であるが、ロマ帝国の復興を見ると、恵みの福音のドアが閉じてしまうことになる。その時になると、教会に仕える機会がなく成り、賞の恵みを下さる機会もえられなくなる。多くても救いを得られるであろう。そして、只救いを得るものであれば、恐らく千年の火の池に入れられる可能性があるでしょう。くれぐれも早めに主イエスを早めに信ずるように、必ず、ルカによる福音書の強盗のように、死ぬ前に、やっと主を信じてしまうが;
ルカによる福音書23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
  この強盗の霊魂が救われたが、陰府にいるすべての聖徒は審判を受ける時に、勝利を得る者が天国へ行くことになるが、失敗の聖徒が火の池や暗闇の穴になげこまれるようになる。最長千年までの苦しみを受ける。
マタイによる福音書25:1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。25:2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 25:3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。25:4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。25:5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 25:6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。25:7そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。25:8ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。25:9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。25:10彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。25:11そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。25:12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
  教会の牧師が言われた、『死んですぐ真のものに変移する。』人間が死んでから、自分の一生がどれほどの空の空であると分かるだろう。只主にあっての苦労がただではないのです。
十三章にある敵キリストは聖徒達に迫害を与えることを論ずるが、十四章にあるヨハネが神の幻を見たことを論ずる内容である。
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 14:1なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
  この十四万四千人は全部勝利を得るものであるが、あらゆる勝利を得るものではない。しかし、七章にあるイスラエルの十二部族の勝利を得るものでもない。この十四万四千人は勝利を得る者の内にある勝利を得るものである。七章にある勝利を得る者と十四章にある勝利を得る者と異なることを理解しなければならないのです。
七章によって述べる十四万四千人には、イスラエルの勝利を得るものである。
  7:4わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
上記の十四万四千人がイスラエルの中にある勝利を得る者であって、しか人類の最後の一週の時に、地上に生きる人である。
7:1この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。7:2また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、7:3「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
上記の聖書によって、印を押されるこの十四万四千人はイスラエルの部族の人であり、地上に生きる人である。既に死んだ人を指すものではない。
「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。又上記の聖書にうよって、この僕達を大きな災難の前に取り去られるのを意味する。言い換えれば、七章1節〜3節まで、これから地上にふりかかる災害をこの十四万四千人に傷害を与えられるので、四人の御使が地の四すみに立っていて、彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。これらの災害が大自然の災害と言うことで、とてつもなく災難である。
現世で全世界に二千四百万人のイスラエル人がいるが、只十四万四千人が勝利を得る者として取り去られる。割合として、200人に一人しか勝利を得る者がいないので、200分の一とのことです。異邦の民がもっと少ないでしょう。
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 7:9その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、7:10大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
上記の聖書によって、異邦の民にある勝利を得るものを指すのである。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから来るので、イスラエル人ではない。
白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って;白い衣とは、勝利を得るものを意味する、しゅろの枝を手に持っては同じ意味をもつのです。 だからあらゆる国民、部族、民族、国語のうちから来る勝利を得る者と言う意味は、今の我々のようなクリスチャンを指し、既に死んでしまう異邦の民の聖徒の事ではない。
地に大きな災難傷害を与えられる天使に待ってと神は命令した。「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
  神は大きな災難の前に、イスラエルにある勝利を得る者の十四万ん四千人を取り去って、次に、異邦の民にある勝利を得る者を取り去られる。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから来る勝利を得る者である。マタイによる福音書とルカによる福音書に述べてある取り去られる内容;
ルカによる福音書17:34あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。17:35ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔17:36ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。
主が再来の時による一瞬の間に、地球の時差によって、取り去られる勝利を得る者が昼でも夜でもある。上記の聖書の言葉によると、神の黙示である時差の宇宙真実で、いかのも全能者の神しかできない。七章九節による異邦の民にある勝利を得る者の数がイスラエル人より多く、数え切れないほどの数です。
だから、十四章にある勝利を得る者の内にある勝利を得る者で、14:1なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
パウロは次の言葉を述べた:
  テサロニケ人への第一の手紙4:14わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。4:15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。4:16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、4:17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
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現世では、大きな災難の前に取り去られる異邦の民にある勝利を得る者が、十四万四千人より多く、それにプラス既に肉体生命が尽きた聖徒達の数が合わせると、非常に多くの勝利を得る者がある。
クリスチャンとなっても、聖書の教えに従っていなかった失敗のクリスチャンが大災難に出会うことに成り、獣の迫害を受けながら、印を押されなかった聖徒であれば、殺されてしまい聖徒だが、一丁勝利者に合格となるであろう。この三年半の大災難に残留する聖徒だが、三年半の最後までいる人もいるが、途中で死んでしまう人もある。その大災難の間に、すべての真のクリスチャンが必ず獣の印を受け入れないであろう。
その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。その故に、多くのクリスチャンがが迫害され、殺される。ですので、これらの聖徒が殺されてから、勝利を得る者と成り、多くの勝利者を生みだすであろう。十四万四千人より多いだろう。
ということで、十四章1節にある十四万四千人は勝利を得る者の内にある更に上へいく勝利を得る者が、主イエスと共に現れ、主イエス・キリストの近衛の軍のように主の側におる。
14:2またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。14:3彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
  この十四万四千人は天使ではなく、「地からあがなわれた十四万四千人」。彼らは、子羊の宝の血の代価によって、贖われたので、勝利を得るものである。
14:4彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である」。この言葉から読むと、これらの人の中に女がおりませんでした。
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聖書の中にいくつか変な記載があるー例えば;
伝道の書7:27伝道者は言う、見よ、その数を知ろうとして、いちいち数えて、わたしが得たものはこれである。7:28わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。
 上記の言葉より、分かるように神である主は、女を不正直だとみなすであろう。先に罪を犯す者が女性である為、姉妹達、くれぐれも気にしないでください。聖書に記載されるので、素直に聞く耳を持つ出来できれば大事ですが、これは真理で、神の御言であるので、神に対抗しても意味がない。素直に従えば、福を下さる。
姉妹達は神の光を照らして下さりたければ、神の言を素直に受け入れ、そして謙虚に神の言を胸に反省できる好い品行を育ててほしい。必ず神の言に反しないように、そしてサタンの罠に陥らない事が大事です。
彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」初穂とするのであれば、その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
  これらの初穂は歴代にわたって、主イエスにあって眠った人と、第七章による大災難の前に取り去られる人を含まれる。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。
14:5彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。
「傷のない者であった」とは、神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
 エペソ人への手紙2:10わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
すべての材料には必ず傷が有るが、その傷のある材料を目的の作品にして、完成をさせれば、その傷がなくなるであろう。例えば;一つの完璧のダイヤモンドであっても、まだ鉱石の段階で、傷があり、彫刻を経て、必要のない傷を削除する場合、この鉱石の傷の大小を削除する上で、ダイヤのサイズが決められる。しかし傷の大小により、削除される寸法によって、そのダイヤの最高な価値を生み出すことが出来る。もし一つ50カラットのダイヤが有るが、真中に傷があれば、この傷を削除する為に、ダイヤには反射率が最も重要である為、四等分を切る必要があり、さもなければ、このダイヤモンドが綺麗ではなくなる。切って切れば、恐らく2カラットが三つ、4カラットが五つ、後、残されるのが三つの大きなダイヤと成る。これらのダイヤを並べ比べて見ると、どっちか最も価値が有るとか?神はその価値のあるものを選び出す=彫刻する職人は価値のあるものを選び出す。もし大きなダイヤに傷が残しても、その大きなダイヤの価値が其の他の小さいダイヤより価値が有るからだ。小さいダイヤが捜しやすいが、大きなダイヤが捜しにくいためである。
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と言うことで、傷とは、加工してから検討を重ねてから決めるので、加工しないことがない。だから、この聖書を主の御座の前に並べて見ましょう;
エペソ人への手紙2:10わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
  又次の聖書に照らし合わせる;
マタイによる福音書20:20そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。20:21そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。20:22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。20:23イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
主の右や左に座れる事は非常に栄光に耀くが、今の時期に、地上にいる私達は神の栄光の輝きが少し感じられるが、キリスト・イエスの御国がまだ現れていない。しかしその内に現れる時に、主の右や左に座れるのがどれほど栄光のある事でしょう。
イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。主イエスは、誰か右や左にすべて聖の父の権威で、決められると言われた。我々もこの聖書の言葉よりヤコブとヨハネが主に仕えて、殉道すると神は預言した。
ヨハネはシザニロの時代に沸騰した油釜に投げ込まれても死ななかった。その後、シザタイメセンの時代に、パトモスという島に追放され、ここで、神の幻を見たのである。聖書では、ヨハネの死に関する記載がなかった:それで、ヨハネがヨハネによる福音書の中に;
ヨハネによる福音書21:23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
  しかし聖書はヨハネの死に関する記載がなかった。聖書の最後の一巻は、ヨハネの黙示録ですが、ヨハネの黙示録が書き終えてから、神の言が閉じてしまった。
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だからここにある「傷のない者」という十四万四千人は、非常に特別な勝利を得るものであって、彼らは誰であろうかと気にしなくても宜しいかと思います。聖書の教えによって、勝利を得る者の内から十四万四千人を選び出し、これらの人が特別な勝利者である。
14:6わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
 ここで宣べ伝える永遠の福音をたずさえてくることを読んだ時に、なんとなくこれに甘んじてはいけないと思った。しかし、よく理解すれば、神の憐れみと私達の信ずる恵みの福音を区切りが出来て、永遠の福音よりも恵みの福音の方が勝る。兄弟達はどっちを選びますか?恵みの福音を受け入れるひとにとって、勝利を得る者と成る機会が与えられ、王となる恵みが賜るのです。
ピカピカと成る前のダイヤが耀くのない鉱石であったが、彫刻加工されながら、最終的に耀くダイヤと成る。彫刻されてから、神の御手によって、傑作となるが、磨かれていないクリスチャンであれば、本当に救いを受け入れて、堅く信ずることがどうか?と言う善悪の両律があるので、代価を払えて、真のクリスチャンと成る人であれば、神の天国で王と成る恵みが賜る。では、そんなに多い王とは、可能か?と疑問を持つかもしれないが、人類はアダムから、今年の2010年まで、既に6014年の人間歴史があるが、今の地球に約67億人間があて、この6014年の間に無数の人が死んでしまった。例えば、死ぬことがなければ、今の総人口が少なく見積もっても六千億が居るので、其中に勝利を得る者が少数でも数え切れないほどがいる。
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神の国で、人類も死ぬことがなく、しかも子孫の繁栄が永遠と続くので、数百年や千年、億年が立てば、貴方を王となる国には、最初二人国民で始まろうとしても、永遠と続くなかで、どれぐらい国民を擁するだろう?しかも神の権威により、国が潰れることがなく、栄光の生命の中に神の形象があって、神から賜って下さる命で、太陽のように耀き、これこそ恵みの福音の現在で、頑張らなければならないのだ。
では永遠の福音とは何でしょうか?永遠の福音は天使によって、述べ伝えられであって、恵みの福音が人間によって述べ伝えられる。勿論天使が人間より福音を述べ伝えやすいし、信じされやすい。
もし恵みの福音は御使いによって、述べ伝えられれば、勿論皆がすぐ信じてしまう。だって神跡が起こる力があるから。しかし、あれはどんな腕前といえるでしょうか?恵みの福音は、目の見えない神を信じて、聖書の教えを守ることによって、神の命を賜って下さるが、永遠の福音が御使いの神跡を見て信じても、神の命を賜って下さらない。それは月とすっぽんの差がある。今の時期にまだ恵みの福音のじきであって、一旦恵みの福音のドアが閉じてしまえば、選択する機会がなくなる。御使いが福音を述べ伝えれば、御使いが天に飛べ、輝き、ラッパのような大声で、神である主を信じなさいと言えば、信じない人がいないだろう。異教も偶像と邪霊の像もゴミ箱に投げ捨ててしまう。その時にもう信ずるしかない。だから神は現世で人間による福音を述べ伝えられるようにさせ、同じ人間ですので、何か他人より特別な所がないし、御使いほどの力でも持っていない。イザヤ預言者による;
 イザヤ書53:1だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。53:2彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
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 例えば、お隣の奥さんは、福音を述べ伝える貴方をみると、すぐさま避けてしまい、玄関まで来る貴方を見つけると、すぐでも勝手口から逃げてしまう。しかしもし御使いが福音を述べ伝えれば、誰でも逃げ道がないし、信ずるしかない。その超自然の力を目の前にしてしまえば、びっくりこしにもならないとは限らない。しかし信じても腕前だと言えないので、価値もありません。
永遠の福音とは、地上に住む人世界の人々に伝える為である。永遠の福音は、新しい天、と新しい地まで、永遠まで伝えられるのです。最後の審判の後、残されるひと群れの地上の庶民が永世の中に神の国民として、存在する。下記の聖書によると、すべての人はわが前に来て礼拝する
イザヤ書66:22「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
  だから永世には、神は自分の為に、血の気の人類が神の庶民として、存在させられる。この群がる人間も福音を受け入れたが、御使いによる永遠の福音を受け入れるのです。
14:7大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
 上記の通りに、神をおそれるように、これこそ永遠の福音で、唯一の神である主をおそれるよう心を持たなければならない。この永遠の福音の真義は、天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め、神をおそれ、神に栄光を帰せよ。
永世の中に血の気の人間にも子供を生むことが出来るが、毎日学校の授業を受けるひつようがある。御使いは彼らに天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め、神をおそれ、神に栄光を帰せよと教えられる。この福音は永遠に伝えられ、永遠である。そして、永遠の世代で、人々が神を恐れる。
新月ごとに、安息日ごとに、すべての人は神の前に来て礼拝する。楽しく讃美歌を歌い、礼拝を終えてから、火の池の博物館を参観に行かれ、神である主に逆らう人々の霊魂を見る。即ち、肉体の生命を持つ時に神を信じていない人と、戒めを守らないひとのことであるが、彼らは永遠に火の池に苦痛を受けることになる。
イザヤ書66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
  安息日は週に一度、新月に月に一度、要するに、週の集会と月の集会がある。平日の時に、御使いが福音を述べ伝えるが、安息日になると、礼拝が終わると、火の池の博物館を参観に行き、これは、安息日にある二次会礼拝と言われ、一次会の礼拝より精彩に溢れ、週にそむいた人々のしかばねを見る。
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「そのうじは死なず、その火は消えることがない」。火の池の中に一匹や二匹うじだけではなく、スライスを整えて数えきれなくて、あの時、どうやって見たい人が探せるでしょうか?うじに覆われ、鼻がとっくになかったと思って、顔は同様に半分を噛んでしまった。全身が腐るであろう。
らい病について、一つストーリがある;まずらい病について、聖書の教えを理解しましょう;
 レビ記13:2「人がその身の皮に腫、あるいは吹出物、あるいは光る所ができ、これがその身の皮にらい病の患部のようになるならば、その人を祭司アロンまたは、祭司なるアロンの子たちのひとりのもとに、連れて行かなければならない。13:3祭司はその身の皮の患部を見、その患部の毛がもし白く変り、かつ患部が、その身の皮よりも深く見えるならば、それはらい病の患部である。
  ヨーロッパにある兄弟だが、お金持ちの家に生まれ、人がよし、親しめるかたである。ある日、馬に乗って出かけて、途中であるらい病の患者に出会った。らい病とは、上記のらい病に関する聖書を読んで分かると思います。あのらい病の患者が丁度道路の反対側に渡ろうとする時、馬に乗っているこの兄弟に見取られた。いきなり馬をとめたので、馬がびっくりされて、長く鳴きました。らい病の患者が振り返っていた。その時にらい病患者の身体をよくみると、耳が腐って、顔も潰れそうとし、身体には何か所が特に腐っていて、内蔵が見えそうになる。ら病と言う病気はこのような状態まで発病可能です。そのらい病の人の外観を見ると、びっくりしたこの兄弟であるが、神はこの時に、あのらい病が貴方ですよと言われた。
兄弟達、今の自分の外観の気振りが誇りだと思うかもしれないが、もし勝利を得る者と成らず、火の池に入れれば、あの時の気振りが正にこのざまである。でも既に間に合わない。その時にもっとも感極めるのが、教会の隣に住んでいた人であるのが間違いない。神の教会を目の前に見えても、見えないようにしているし、誘われても行かない人が嘆き深いだろう。
そして、審判の時に神は;貴方の家の隣に教会がおいてが、一生に神を信ずる気がなかった。といわれるであろう。  主イエス・キリストを信じれば、永遠の命を賜って下さるが、庶民だけと成れるが、王と成られない。勿論永世の庶民となれば、今の人類より幸せであろう。食う、飲む、着る等心配することがなく、涙も痛いも、疾病も死亡もなく、生んだ子供でも絶対に親の教えに従う。だって従わなければならない、戒めが有る為だ。そして妻が素直に夫に従い、夫が妻に忠実である。しかしこれらの庶民の生命だが、神のような永遠に変わらぬ生命を擁していないし、耀かない。
ところで、神の愛によって、地上で幸せに暮らせる。この宇宙スペースでは、神は巨大な空間を残していた。勝利を得る者が永遠に何千年、万年、億年が過ぎても、王として続ける。
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神は公義かつ公平であり、「永遠の福音」を受け入れる庶民は、永世に幸せに暮らせるが、神の生命を得ることが出来ないし、そして、王となることもできない。しかし現世で、救いを受け入れる者が九死に一生を得ることを経過するひとであれば、神の賞を得られて、そして、勝利を得る者が王と成れる。
つきましては、火の池に投げ込まれる悪の不信を持つ畜類が結局非常に悲惨で、永遠の苦痛を受けなければならない。天使の場合、墜落するかしないか、自分で選択できる権限をもつので、既に三分の一の天使が墜落したが、神は天使を救わないですが、人類だけを救う。  
ヘブル人への手紙2:16確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。
最後の一週の後半では、大きな災難があって、敵キリストが非常に大きな権勢を持ち、奇跡を行えるし、甦りさえができ、偶像の像が話せて、人を控える力が強い。このような環境下で、クリスチャンが大きな試練を受けるようになり、試練に勝れば、勝利を得る者と成れるが、神はこの三年半の試練の中に、クリスチャン以外の人にも機会を与えられる。所で、迫害を受けられるクリスチャンらが敵の迫害を受ける為に、福音を述べ伝えられない為、御使いが、福音を述べ伝えることになる。御使いが空中で飛びながら、福音を述べ伝える神跡を人々にお見せすると同時に敵キリストも地上で、神跡を行え、恵みの福音を信じない人は、御使いが敵キリストによって、迫害を受ける聖徒を救うことしないと見る為、この永遠の福音を信じない人も大勢いる。それで、永遠の福音を受け入れるのとであれば、マタイによる福音書にある羊、とやぎのような人間となって、羊がクリスチャンを手助けし、獣の像を拝むことがない。
又悪の不信を持つ人が、やぎとなって、クリスチャンに迫害を与える。ここで、一つ注意しなければならないのは、羊と成れるひとが、大災難の三年半の時に、地上に生きていて、永遠の福音を受け入れたので、迫害を受けるクリスチャンに助けの手が伸びるため、永世の世界で、庶民をなって、入れることを許される。
ところで、クリスチャンの場合、大いに違い、神から賜って下さる神の生命があって、神の子供と成れる。このまま見ると、恵みの福音が最後の一週に入る前にドアが閉じてしまうであろう。
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 14:7大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
永遠の福音とは「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」。「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。上記二つ言葉の間に、「神のさばきの時がきたからである」を付け加えたが、これは、大災難の三年半の時に述べ伝える福音であって、大災難が過ぎ去ってから、この言葉「神のさばきの時がきたからである」は、永遠の福音の中から削除されるようになり、審判を過ぎ去るので、永遠に神への敬畏だけが必要と成る。
14:8また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。
上記の聖書によると、神はカトリック教を裁くことを語る。後で、17と18章の時に詳しく読みましょう;
14:9ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、14:10神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
  この時期に御使いが天で、福音を述べ伝え、人々に獣を拝まないように、そして、印を押さないようにと教えられるが、もし教えを受け入れなければ、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。だから命の冊で、名前のない人であれば、獣の偶像と獣の印を受け入れられる。命の冊に名前のあるものが絶対しない。一旦お崇めば、永遠の死亡に陥る、即ち第二次死の害を受ける。
14:11その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
  この苦痛は、世々限りなく昼も夜も休みが得られない。絶えずうじに噛まれ、火に焼かれ、昼も夜も休みが得られない。火の池の中に永遠に焼かれ、咬まれる。だから早めに主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け入れた方が好さそうではないか?人間にはいつか死ぬことが誰でも知らないのだ。諺によって;「陰府に行く道には、年には関係ない」。今日は元気で生きて、明日がどうなるか誰でもわからない。悪魔のささやきに耳を傾けないように、人生には誠心誠意で、洗礼を受けるのが最も大事なことで、何事よりも重要です。
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例え;後になって、聖書が嘘だと証明されても、貴方にとって損失などありませんが、何しろ風呂に入る気がするものではないか?しかし主イエス・キリストを信じてますか?もし信じていなければ、洗礼を受けていても役に立たない。
14:12ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
神の戒めを守りとは、イスラエル人のことであり、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐があるとは、クリスチャンのことである。
神は旧約聖書で、ユダヤ人に律法を守らなければならないと仰せになった。守りたいが、完全でなくても救われるが、我々異邦の民が、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。ということで、聖書の預言によって、最後の一週では、ユダヤ人とクリスチャンが迫害を受けることになると予言された。
14:13またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
「そのわざは彼らについていく」とは自分に一生に置いて、クリスチャンとして、何をなさったのでしょうか?自分について行く何がある?財宝、骨董品何でも持っていくことが出来ないが、ついて行けるのが、神の御前で、主に仕える現世の苦労や賜って下さる生命だけになる。主に仕える分がただものではない。
教会に仕え、神の戒めを守って、教会の教師となって、神の言を述べ伝える。又神の教えを守るように聖徒に促しをし、誠心誠意で、全力を尽くすことによって、ごく僅かなくろうであるが、主にあっての苦労には大いに意義が有ります。実に言えば、毎日では働いても何か意義が有るでしょうか?
私は、早い時期で、既に上場したパソコン会社に勤めたことがあり、最高記録には、七十日余りの間に、休みが出来なかった。全世界の代理店が台北の圓山大飯店に集まって、会議を行うので、会議の三日前に、何千枚のスライド写真を用意しなければならない時期があったが、会議の時に、代理店に今回の会議の為にどれぐらいの人間が七十日余りで休みがなく、そして、最後の七十二時間で、Marketing部門(あことをマケッテイング部門)の人が三日徹夜続いたことを言いましたが、今になって誰かそれを覚えてくれるでしょうか覚えるのが私ぐらいだけであろう。
それぐらいの苦労には価値や意義があるでしょうか?答えは有りません。貴方には人生に置いてすべての努力が空の空である。例えば;水泳の世界チャピオンになっていても、十年後の彼がまだ泳げるか?又、努力したすべての苦労が肉体の生命が尽きる時にも水泡と成る。兄弟達現世の世界に置かれる苦労が我々について行けないのだ。
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14:14また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。14:15すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。
 この地の穀物は地上に残される聖徒達を指すもので、ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。この三年半にわたる大災難で、苦難に耐えながら、神の戒めを守り、獣の像を拝むことがなく、そして、全く実りとなって、刈り取るべき時がくる。今聖徒としてしっかり神の戒めを守らない人には、神から三年半の大試練を与えられ、忠実に神の道を守り通る人であれば、勝利を得る者と成るが、大変な試練と苦痛の道であろう。
14:17また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。14:18さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。
前の15節にある地の穀物は全く実りと18節にあるぶどうの実がすでに熟しているからとどっちか異なるかというと、地の穀物とは、私達のことを意味し、ぶどうの実とは、激しい怒りの子であり、滅ばれるべきである。
14:19そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。14:20そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
ある諺による;「血が流れて川と成る」。血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。おおよそ三、四百キロぐらいとなる。東京から福岡まで、血で溢れ、ダムに血が入れても満ち溢れることになる。よく考えて見れば、どれぐらいの人がしぬことになるだろう。あのぶどうの実が悪行を行うばかりのひとである。
大災難の時に私は食って行く為に、ピカソの画を売りに出す際に、密告され、その密告をする人がぶどうと言われる。神の審判によって、これらのぶどうが神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んで、そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。即ち火の池に投げ込まれる。
ヨエル書3:9もろもろの国民の中に宣べ伝えよ。戦いの備えをなし、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせ、のぼらせよ。3:10あなたがたのすきを、つるぎに、あなたがたのかまを、やりに打ちかえよ。弱い者に「わたしは勇士である」と言わせよ。3:11周囲のすべての国民よ、急ぎ来て、集まれ。主よ、あなたの勇士をかしこにお下しください。3:12もろもろの国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷にのぼらせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばく。3:13かまを入れよ、作物は熟した。来て踏め、酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪が大きいからだ。
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上記の聖書による神の黙示であるが、人類の世界の終焉の時に、世界のもろもろの国がイスラエルを攻撃すると教えて下さった。神はこの最後の三年半の苦難の中に、試練を受けて、戒めを守ったクリスチャンを先に取り去られるー「かまを入れて刈り取りなさい」。そしてかまを入れよ、作物は熟した。来て踏め、酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪が大きいからだ。地上の人の不信の悪行を裁き、これはハルミキトン戦争である。これら世界の連合軍による数え切れないほど大連合が神の激しい怒りの中に投げ込まれ、エルサレム神の城の外にーその酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
戦争が終結した後の状況はどうなるでしょうか?
 ヨエル書3:14群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである。
神はさばきの谷で、羊とやぎを裁くのである。この時期に、聖徒達が裁き済みで、すべての勝利者も取り去られ、残される失敗者のクリスチャンが火の池や真っ暗の闇に入れられる。その後、さばきの谷での裁きは、この三年半の大災難の中に、救いを得られていない異邦の民に対する裁きで、一部が羊で、一部がやぎであるー群衆また群衆は、さばきの谷におる。主の日がさばきの谷に近いからである。
神はここで、人を羊とやぎに分けられ、羊が永世に庶民としてはいれ、やぎが永遠の火の海に投げ込まれる。聖書は羊がすくいをえられるとは言ったことがなかった。 
マタイによる福音書の25章では、25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
 尚これらの羊は、戦争後、さばきの谷での審判によって、さばきだされたのです。ということによって、十四章にある地の穀物は全く実り、刈り取るべき時も戦争の時に起こるものである。引き続き、神の激しい怒りは七つの釜による災難に発して尽きる。
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