第五講義 ー 死と黄泉とのかぎを持っている


聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)    作者:呉明憲兄弟


死と黄泉とのかぎを持っている。

  ヨハネの黙示録1:17わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、1:18また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。1:19そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。1:20あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。
1:17わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。」
 上記の聖書を読んでから、なんとなくおかしいと思ったことがないでしょうか?聖書に記載される内容と自分の考えが何か食い違いがない?前の12節と13節ではヨハネが「振り向くと」そして振り向いてから、金の燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。理屈でいえば、ヨハネは主イエス・キリストを見た途端に、当然のように嬉しくてたまらないはずであるが、まさか「彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」

 なぜなら九十歳を超えたヨハネは非常に霊のある人間である。もし今日はヨハネが生きていれば、パチカンの法王以上に尊敬を集めるだろう。ところで、見たのは「彼は主イエスを見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」
「彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」というのは、説明できるのが只一つだけ、身分の不相応で、主人と僕以上の身分差別がある。ヨハネは既に一生、主の為に仕えてきたが、受けた試練も並大抵のものではないが、あれだけの経歴でもここで何の役にも立たないのようです。
 旧約聖書のダニエル書のダニエルもヨハネと同じように神を見た時にその足もとに倒れて死人のようになった。
 
 ダニエル書8:16わたしはウライ川の両岸の間から人の声が出て、呼ばわるのを聞いた、「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ」。8:17すると彼はわたしの立っている所にきた。彼がきたとき、わたしは恐れて、ひれ伏した。しかし、彼はわたしに言った、「人の子よ、悟りなさい。この幻は終りの時にかかわるものです」。
  
 すべての預言者は神や神の栄光を見た時にその足もとに倒れて死人のようになった。これ以外の反応がない;私達は罪人であることを証明された。ある謙虚の兄弟に、標準のクリスチャンの形はいかがなものでしょうか?と他人から聞かれて、そして一生にかけて、いつも自分に聞かせ、どうすれば、好いクリスチャンになれると常に反省する日々である。
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  もしある日になって、もう自分が反省心を持たなければ、必ず個人問題が起こるだろう。聖書の預言者のようにその「神を見た時にその足もとに倒れて死人のようになった。」という言葉から見れば、確かな証明である。この時期のヨハネは既に四巻の聖書を書かれた方であるが、彼の書いた内容もすべて神によって認められ、一つ文字も修正する必要がなく、聖書に組合わされた。神様自身の仰せになるようである。
 ヨハネの謙虚さに対し、これは私達も模範であるが、サタンなら、常に傲慢で、自我中心である。
人間はなぜ驕るでしょうか?神を見たことがないので、傲慢するでしょう。もし神を見たことがあれば、驕り、傲慢・怒りなどから絶別し、謙虚な人生を送るでしょう。
 もし神を見たことがあれば、世の中の成功や失敗や富や貧困などに対し、気にしなくなるであろう。本当に神に仕える僕であれば、必ず神の幻に出合わせ、黙示を受ける。さもなければ、人間の傲慢さで神に仕えることができない。ある讃美歌で、「十字架の栄光を見て、十字架にイエスを付けられて、そして主イエスの頭、手、足から血が流れ、主の憂い慈愛の顔を見た時、自分のすべてを忘れ、過去の傲慢を軽視する。」
 この讃美歌の意味は昔自分の傲慢さを恥ずかしがる;この讃美歌を書いた方の心は既に主イエスを見た途端、ヨハネのようにその足もとに倒れて死人のようになった。
 
 「すると、彼は右手をわたしの上において言った。」聖書では「右手を他人の上において」とは、人に力を与えることである。人間は自分がよくできるぞ、頑張るぞ、言い張ることが多いのですが、実際に自分だけの力でなにもできないし、限界がある。例え;一時的な成功でも、驕ってきて、その傲慢の同時に必ず何かを失うであろう。もっと惜しいことであるが、全世界を得られても、自分自身を失えば、何か意義があるでしょうか?短い人生には、何か大事ですか、それを探る必要があるし、間違い道を歩まない智慧を要するのも、神の恵みと力に頼らなければ到底私達にはできない。

 もし貴方はとても主イエスを愛していると自認したがmでは、下記の聖書を読みましょう:

 マルコによる福音書14:29するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。14:30イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。14:31ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。

  そして最後の晩餐の夜に一緒にゲツセマネという所にきて、共にいたイエスを捕えられた。そしてペテロは三度イエスを知らないと言った。ペテロはおかした罪がどれほど大きいでしょうか?
マタイによる福音書10:32だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。10:33しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
 ペテロは三度イエスを知らないと言った。これは主は捕まえられる前の予言であったが、ペテロとしては、すぐでも忘れることはないでしょう。人間の軟弱がいかにも弱くてで頼りにできない。もし主に自分のすべてを頼りにしていたら最高な智慧の持ち主ではないかと思います。
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  ですので、自分の熱心によって主に仕えることが難しいだけではないが、かえって教会の難所になる場合もないとはいえない。。なぜなら「彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」という体験がなくても、すくなくても神を認識しなければならない;
  箴言2:1わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、2:2あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、 2:3しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、2:4銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、 2:5あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。
  なにもかも神に触れられる体験がなければ、勝手に自分の一時的の熱心で、神の教会に触れば、歴代志上十三章のように神によってウザを撃たれて死んだと同じようになる。

 歴代志上十三章13:1ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、13:2そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。13:3また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。13:4会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。
 
 物事の経緯は、サウルの世にはこれをおろそかにしたからですので、神の箱が空っぽう同然です。エリ時代―エリはサムエルに油を注いで先知で、サムエルはサウルに油を注いだ。エリが九十歳余りの時にサムエルがまだ子供の時でした、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは勝手に動いて、神の契約の箱と共にその所にいた。ペリシテ人に戦争で負けてしまって、ペリシテ人に神の契約の箱を奪われてしまった。それにエリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された。
そしてペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた
  5:2そしてペリシテびとはその神の箱を取ってダゴンの宮に運びこみ、ダゴンのかたわらに置いた。5:3アシドドの人々が、次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていたので、彼らはダゴンを起して、それをもとの所に置いた。5:4その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。5:5それゆえダゴンの祭司たちやダゴンの宮にはいる人々は、だれも今日にいたるまで、アシドドのダゴンのしきいを踏まない。5:6そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドとその領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。5:7アシドドの人々は、このありさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの所に、とどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴンの上にきびしく臨むからである」。5:8そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちを集めて言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょう」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱はガテに移そう」。人々はイスラエルの神の箱をそこに移した。5:9彼らがそれを移すと、主の手がその町に臨み、非常な騒ぎが起った。そして老若を問わず町の人々を撃たれたので、彼らの身に腫物ができた。5:10そこで人々は神の箱をエクロンに送ったが、神の箱がエクロンに着いた時、エクロンの人々は叫んで言った、「彼らがイスラエルの神の箱をわれわれの所に移したのは、われわれと民を滅ぼすためである」。5:11そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちをみな集めて言った、「イスラエルの神の箱を送り出して、もとの所に返し、われわれと民を滅ぼすことのないようにしよう」。恐ろしい騒ぎが町中に起っていたからである。そこには神の手が非常にきびしく臨んでいたので、5:12死なない人は腫物をもって撃たれ、町の叫びは天に達した。

 このような出来事は五つの都にて、おこったので、ついにペリシテ人の人たちをみんな集めて言った、「イスラエルの神の箱を送り出して、もとの所に返し、われわれと民を滅ぼすことのないようにしよう」。そして 

  サムエル上6:11主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。6:12すると雌牛はまっすぐにベテシメシの方向へ、ひとすじに大路を歩み、鳴きながら進んでいって、右にも左にも曲らなかった。ペリシテびとの君たちは、ベテシメシの境までそのあとについていった。
 死なない人は腫物をもって撃たれ、町の叫びは天に達した。その後;

  サムエル上6:17ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。6:18また金のねずみは、城壁をめぐらした町から城壁のない村里にいたるまで、すべて五人の君たちに属するペリシテびとの町の数にしたがって造った。そして元の所に主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。
主の箱はペリシテびとによって送り戻された時にサムエルがイスラエルの士師として政治を握る時期であった。その時から、主の箱が幕屋の中にはいったことがなかった。当時ではシラに大きな幕屋があり、それがイスラエル人がエジプトを出た時の幕屋だったが、幕屋の中に主の箱がなかった。
  ペリシテびとが主の箱を返してから、あなたがたのキリアテ・ヤリムの人々の所へ携え上って丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。この間にはサウルの時代を経過したまで、約七・八十年の間にキリアテ・ヤリムの人々の所に置いた。長い間に民が常にシラの幕屋までお祈り求めに行かれますが、そこに幕屋だけで、主の箱がなかった。
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  ずっとダビデの時代まで、やっと大復興ができ、ダビデは主の箱を迎えたいと思った。理にかなって言えば、神はダビデの決定に喜びを与えるだろうが、過去約七・八十年の間に誰でも主の箱にお祈りをした方がおりませんでした。今になって、ダビデの決行について神に畏敬の表しではないか?人間の考え方によれば、迎える方法ならどうでも宜しいと思いがちだが、ダビデは神には授かった律法に依ってレビ人を遣わなかった。ペリシテびとのようなやり方で、主の箱を牛で運んだが新しい牛車であった。そして神の箱を新しい車にのせて、アビナダブの家からひきだし、ウザとアヒヨがその車を御した。彼らがキドンの打ち場に来た時、ウザは手を伸べて箱を押えた。牛がつまずいたからである。

  歴代記上13:10ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。
  
  ウザは小さい時から主の箱の前で、暮らしていたが、主の箱とは神である主のことを知らなかった。
聖書の神である主は歴代記で仰せになった;15:13さきにこれをかいた者があなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました。これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」。15:14そこで祭司たちとレビびとたちはイスラエルの神、主の箱をかき上るために身を清め、15:15レビびとたちはモーセが主の言葉にしたがって命じたように、神の箱をさおをもって肩にになった。
 主の契約の箱の中とは、神である主のあかしである。その中にモーセーが十の戒めを伝達した板、アロンのつえは芽をふき、そのほかに金の灌にイスラエル人がエジプトから出て、荒野で食べたマナーの三つが入っていた。これは神である主の契約の箱であり、箱の上に二つの守護者ケルブがあって、御座の両側に置かれていた。イスラエル人が各種の祭りの時に主の箱の前で行われる。大祭司は一年に一度、奉げる家畜の供え物の血によって、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。
 
  契約の箱は神である主を代表するものである。神は契約の箱の上にある御座で、人間に仰せになる。
だから主の箱のようなことに出会えば、神の戒めの通りに仕えなければならない。しかしイスラエル人が聖書をよく勉強しないでーダビデーも同じだったので、レビ記の聖書内容を詳しく読まなかったので、勝手に新しい牛の車で、主の箱を運んだが結局、神の恨みを買って。ウザのような不幸な事件が起こったのだ。
兄弟達;使徒ヨハネのような霊性に満ちる方でも、何に頼って主に仕えるでしょうか?もし肉体を頼りにすれば、只その足もとに倒れて死人のようになるだけではないか?主の右手をわたし達の上におかないと仕える能力や力がないのです。
主の右手をわたし達の上に置いた後、主の言葉は何でしょうか?恐れるな;ここでヨハネについての感じだが、「主を見た時にその足もとに倒れて死人のようになる。」この言葉の意味は単に恐れるなだけではないが、恐れていることがまちがいありません。なぜ恐れるでしょうか?私は主の初信者の時に、よく理解できないが、だんだん信仰体験や神からの黙示などを体験してから、神を畏敬しながら、仕える心境になり、新約聖書の使徒行伝にあるパウロのように大胆に主の言葉を述べ伝えるのを読んだ若い時期に、不思議に思ったのは思い切りが必要あるだろう?又教会で神様の言葉を伝えるのが皆に歓迎されるではないか?と思い込みであるが;
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  いいえ;そうではないです。聖書の歴史や人間の歴史を見てもほとんど悲惨な結末に陥る。旧約聖書にあるイザヤ預言者の死に方はキリで切られて死んだ、新約の使徒達ペテロやパウロも十字架につけられ、苦しんでから死んだ。これはいずれも殉道の結果である。
  神の言を述べ伝えても大したことがないと思えば、間違いである。なぜかというと一旦神様の言を述べ伝えれば、霊魂の闇の世界にある悪魔の一味からの攻撃が必ず襲ってくるし、しかも我々の眼で見る事が出来ないほどの霊の戦争となる。聞いたことがありますか?教会の小組では、聖書の勉強会を定期的に行っているが、常に攻撃を受けていた。どうしてそうなる?私達はそれを裁かないが、神に信仰をもってお祈りする必要がある。
 恐れるな;主につき従い、思い切って神の言を証しするのが容易なことではない。そして貴方自分は言いたくても、言えるものでもない。ところで、もし貴方のメッセージは教会にとって有益でなければ、それなりに価値がない。
  本当に黒闇のサタンとしては、ヨハネの黙示録を述べ伝えることによって、間違いなく攻撃され続けるだろう。もし敵の悪魔は私達の言う言葉を気にしないものであれば、この言葉がきっと何の役にも立たないでしょう。それが闇世界の黄泉のドアを震撼させていなかったので、もし震撼させたら、聖書に記載してある諸番の幽冥大軍がすぐでも来るし、貴方の環境をことごとく攻撃するであろう。ですからここで、主は右手をヨハネの上において言った、「恐れるな。」次は何であろう?「わたしは初めであり、終りであり」と主は言われた。
 
 この「わたしは初めであり、終りであり」と言う神の権勢と神の全能の力によるすさましいことで、私達にとって、極めての慰めであり、神の同在をしみじみ感じるのである。例えば、病気の時、貴方が怖がるでしょう?しかし主を堅く信ずれば、平安に変えられる。主は仰せになった;「わたしは初めであり、終りであり」。主はいつも、どこにも、昔も、将来もいつも全能の神である。
今日、主に仕える人々の「恐れるな」の勇気がすべて主から来られるもので、自分によることではないのを承知すべきであり、知って置くべき事である。何しろ我々の天敵サタンが悪魔の闇の力も巨大である。主は私達に仰せになる言葉は;「恐れるな、わたしは初めであり、終りであり」先にも述べたが、主はいつも、どこにも、昔も、今も、将来も、全能栄光の神である。例え;一時でも闇の攻撃を受けたが、苦しくて我慢できない時でも、主イエス・キリストの肉身の時のことを想像すれば、そして見習えて、また神様を賛美をし続ければ、間違いなく神様の恵みが賜る。常にこの言を覚えれば、何か困難の物事にぶつかったら、自分に力にもなる;「恐れるな、わたしは初めであり、終りであり」
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 そしていやな顔一つでも見せる事がなく、忍耐強くかつ喜ぶ気持ちを持ちつづけると、主は何かを勉強させて下さるでしょうか?畏敬の心霊と感謝を主にお聞きすれば、きっと貴方の周りの事を通じて、教えてくださるであろう。
  ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 「神を愛する者たち、すなわち、万事を益となるようにして下さることを」この意味はクリスチャンに有益があると言っていることではなく、神を愛する者たち、万事を益となるようにして下さることを」。神を愛していない方であれば、万事を益となるようにならないこと」である。
  それが好いことですか?悪いことですか?好いか悪いか別にして、毎日の暮らしの中では、仕事、環境、人間関係、家族関係、夫妻生活、お金など、世の中に溢れる目の欲望や情欲の欲望やお金銭の欲望など自分の周りに置かれている、何しろ肉体人間ですので、必要な食、衣、住、行等を必要としている、それを目標にしてやるしかないが、神様にこのような環境下に置かれていた人間が殆どこの世界に目や心が奪われてしまう為、人間にとって最も大事な霊魂生命のことを気にしなくなる。しかし神はよく考えれば、人間の肉体生活が苦労の連続で、いくら成功した人間でも、有名になった人間でも、世界一のお金持ちであっても、生まれたと同じように死ぬ時に何も持っていけないので、持っていけるものは只聖書にある神の言をどれぐらい理解し、この世で神様に仕えられたかどうか?そして主の為にいくら病気でも、迫害でも、攻撃されても相変わらずひとすら主を信ず続けることができるか?どうか?艱難の時にギブーアップしたか?戒めを守ったか?人に愛をもって接したか?善事を行ったか?信仰生命の成長につき、「神を愛する者たち、すなわち、万事を益となるようにして下さることを」。一生にかけてのことですので、信仰とは、試練が付き物で、さもなければ、永遠の命の恵みと勝利者の賜りが簡単に降りってこない。そのポイントは;病気の時の信仰状態?貧困時期の状態?攻撃される時期の状態?物事が旨く行かない時の状態?常に主の事を第一重要事項にすることがあるかどうか?そして御霊の九つの実に以下のも実ることができるかどうか?
  ガラテヤ人への手紙5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
  主の使徒にあるペテロの死因は逆に十字架に釘付けられたことや使徒ヨハネは油鍋にいれられたことがあって、九十歳あまりで、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。バカンスの為に行くことではなく、追放されたのです。どっちにしても酷い目にあうばかりでした。しかし主の為に喜んで従ったこそ;「神を愛する者たち、すなわち、万事を益となるようにして下さることを、」と言える。
マタイによる福音書20:22イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
貴方もイエス・キリストを神であることを信じれば、使徒達と同じように飲むことができますと答えられるように実行してください。これこそ主の弟子と言える。よく考えてください、主イエス・キリストにつかなければ、では何を信じてつくのでしょうか?人間にとって二つの道しかない;主以外にもう一つ、サタンーの弟子になるしかないではないでしょうか?要するに
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 エペソ人への手紙4:8そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。
  聖書の原文の意味は「捕まったとりこを捕えて引き行き」。あの「捕まったとりこ」というのは、私達のことです。主によって救われる前に、私達はサタンーに捕まえられたもので、そしてサタンーと同様に神の敵となった。ところで、神は捕まった私達を捕えて引き行き、そして教会に賜って下さった。教会の恵みとなり、これらの人のうちに主の使徒となる方も大勢にいた。
  パウロは元々主に反対を唱えたが、人々がステパノをに石を投げつけられたのを目の前で見ていた。それだけではないですが、数多くの主の使徒たちを獄に引き渡し、教会を荒し回った。更に道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れていたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった;「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
  元々サタンに捕まったパウロを主が捕えて引き、教会に賜ってくださった。パウロは使徒となった。そして彼はある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせた;
 エペソ人への手紙4:11そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。4:12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ。
  今エペソ人への手紙4章を読む時に、【主は初めであり、終りであり、】ということを認識する必要がある。世の中のすべての出来事が主のお許し得るこそ起こられるので、私達にとって有益である。その内私達の成長の為、私達に必要な環境を測ってくださる主の愛に感謝するだろう;こうして頂だかなければ、賞を得る資格がないです。よく見てください;すべて貴方の為にある「神を愛する者たち、すなわち、万事を益となるようにして下さることを」。

 貴方はもし主を愛する者であれば、それでは必ず万事を益となるようにして下さることである。聖書にある神の言によれば、「有益」とは、現世の益だけではなく、永世にある永遠の益である。
  主は【主は初めであり、終りであり、】彼は絶対失敗することがない。
ヨハネの黙示録1:18また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
  私達は常に苛められたら、血の気が上がってきて、主の言をすぐでも忘れてしまい、自分でも早く冤罪を晴らしたい気持ちでいっぱいですが、主が来るのを待ちに待てない、待つと遅すぎると思いがちである。
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  兄弟達;主は初めであり、終りであることを信ずるできである。私達の神は奇妙な神であり、彼は生きる神であることを信じれば、生きる証しが見えるが、不在と思えば、てらしてくださらないでしょう。貴方の信仰の強さによって、恵みがそのようになる。しかし私達の信仰は如何なものでありましょうか?
  マタイによる福音書17:20するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。

  有る俳優だった兄弟が福音を信じてから間もなく、二十八歳の時に硬直性脊髄炎という病気を患ったので、俳優生命が断たされた。それ以降彼は人生には非常に消極的となった。ある有名な先生によって数十年の治療整体を受けたが、一向によくならなかった。そしてその病歴表が聖書よりも厚くなった。ある日先生から言われた、この病気はこのまま治療しても治らないので、治療をやめなさい。その話を聞いた張本人が非常に怒ったが丁度奥さんから福音を伝えてもらってから三十年間がたって、やっと信じ始めた約2け月弱後だった。先生の所から戻ってきて、緊迫的に奥さんにのべ伝えてくれたイエス・キリストは一体自分の病気の治療が出来るかどうか?聞きました。聖書にある病気治療のことについて奥さんにお聞きました。いきなり聞かれたので、絶句になって答えようができない奥さんであった。何回でも突っ込まれて聞かれたが、奥さんがやっと小さな声で、「可能ですと答えた」。
  この奥さんが教会に数十年も熱心に主に仕えたのですが、答えを聞いた彼は、そうだったら、これから先生に通いません。ひとすら主を仰ぎますと決心した。あの時夫婦二人はある小さい化学工場を経営している為、この兄弟が工場にある小さな中二階に引っ越して、毎日泊るようにした。毎日夜明けの時に起きて、お祈り続けた:主よ直してください、毎日千回以上、この「主よ私の体を直してください」とお祈り続けた。このまま、2け月弱が過ぎて、自宅から家に用ができたので、すぐでももどってくれという電話があった。硬直性脊髄炎という病気を患ったので、一人での行動が無理である為、いつもお手伝いさんが車で家まで送ってくれるが、その日にお急ぎだったので、お手伝いさんが居ませんでした。しかしすぐ帰宅しなければならないので、;融通をきかした方法を用いて、人様にオートバイの席に彼を持ち上載せて、彼自身がオートバイに乗って帰宅する。体が硬直していて不自由な動きであるが、危なくてもそうするしか仕方がなかった。
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  途中に乗ることができて、赤信号に当たって、すぐブレーキをかけて待とうとしたが、いきなり後ろから緊急なブレーキを踏む音が、『きいいちいちちょっと!』と大きな音が続いてまた:『ぱん!』としくじって、自分でも突き飛ばされるだろうと恐らく同様に死に居合わせるのではないか?彼は考えていたように極自然的に急いで振り返って見ると、持ち合わせたのは別の道を行く一人の人が転んでいて起き上がろうとした。大した事故ではないので、ほっとした。でも突然に『おや?私はどうして振り返ってみる事が出来たか?私はすでに30年にも振りむけできなかったではないか!』と意識した。但し彼は突然で、振り返ってみることができたし、更に全身的に全部動けるようになった。
  
  彼は続きでオートバイで家の玄関まで戻ってきて、身内がいつもと同じようにオートバイ席より彼をおろそうとする時に、彼は自分でオートバイ席から脚をちょっと上げて、跨がって、そして自ら下りてきた!その場にいるすべての人がびっくりした:『どうしてこうなった?』と驚くほど嘆いた。これは確かに、神は彼を治めた。その後、彼自身が飛行機でアメリカに居る娘を訪問しに行かれたが、飛行機に降りた時の彼は顔中に涙が溢れ『結婚して30年、間もなく病気で患って、それ以来或る日私は自分で飛行機でアメリカに娘を見に来ることができると決して考えたことがな買った。
 これはすべて神からの恵みである。なぜなら彼は聖書を信じていた。単純な信仰で、福音を信じてから、2け月弱だけでしたが、彼は聖書にある主イエス・キリストは海上の暴風を抑え、ラザロを甦らせることを信じていた。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。

 クリスチャンとなってからその勇気と力の源は主イエスからであることを理解すできである。こrrは、最も重要です。もし私達は主イエスを認識することができれば、「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり」。私たちはすぐ他人に無実の罪を着せられていても、恐れることもないであろう。又私たちは同じように人に無実の罪を着せかねるでしょうか?:あなたは敢えて人に無実の罪を着せるか?神の「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり」。もし私達は「主の目は燃える炎のようであったことを分かれば」;他人や兄弟を苛める勇気がありますか?人を騙すのか?もし悪行を直さなければ、主イエスを誠の神であることを信じていないと考えられる。
  もし 私達は主が初めであり、終りでありことを信じれば、悪い働きをしなくなるでしょう。やれば、神の恨みをかうことになるのである。下に続き「;わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。」前にはこの聖書の言を読んだ時に、ふと思ったが、なぜならそうなったのですがそしてヨハネによる福音書をよんでから、まさに少しでも言い過ぎることではない。
 
 ヨハネによる福音書1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
大勢の人がこの「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言」は聖の父であると思うが、14節の―そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」ここまで読んで、初めて知ったのが、「言」とは主イエス・キリストである。
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  そして ヨハネによる福音書1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
  智慧のある方であれば、よく探って見ましょう;こも「言」とは世の中のすべてのものは、これによってできた。これこそ、形成されるすべての物の真がこの言によるものです。例えば;椅子の形成の真は神によることです、1+1=2―地球が消滅になっても、これは不変の真理であり、永遠に存在の神である。昔、聖書を読む度に疑問が生じてくる、一体神様はどなた様ですか?なぜ「わたしは、有って有る者」でしょうか?」
  出エジプト記3:14神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
その外になぜなら神はわたしは初めであり、終りでありだと言われるのですか?神は確かにそうだったのが間違いない。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。初めに人類がなかった時に神があった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
イエスを否定する人間がいるが、これらの人々自身がイエスによってできたものを知らなかった。
  ヨハネの黙示録1:18また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、もっとものすごく言葉は「死と黄泉とのかぎを持っている。」
兄弟達;ヨハネの黙示録が出来上がった時期、今から1900年前に書かれたもので、聖書の他の巻で、死と黄泉とのカギを持つのがサタンーだった。
  ヘブル人への手紙2:14このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
  パウロの各教会への手紙の中に死と黄泉とのカギを持つのが誰か?言わなかったが、ヨハネの黙示録には、死と黄泉とのカギを持つのは主イエス・キリストである。
  以上の聖書内容を合わせると、神は仰せになった主イ、エスを十字架に付けられる前に死と黄泉とのカギを持つのがサタンーでしたが、主イエスは十字架に釘付けされてから主の死亡を通して、サタンーを損害したことを借り、死と黄泉とのカギの権勢をとりもどしたのです。
ということで、死と黄泉とのカギを持つのは主イエス・キリストであるため、主の許可を得られなければ、私達の霊魂が永遠に基督の国度に生き続けられますので、「恐れるな」。
  もし心より主イエスを愛し続ければ、主を愛すれば、必ず主の戒めを守れる、守れれば、本当の信仰とも言えるようになり、そして闇の権勢に対し、恐れることがない、だって死と黄泉とのカギを持つのは主イエス・キリストである。
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 すべてのクリスチャンは死と黄泉とのカギを持つのは主イエス・キリストであることを信ずれば、死に対し、恐れなくなり、反対に死ぬのが怖いというクリスチャンなら、主の権勢をよく知らないからである。
主は死亡から甦って、死亡に勝ったので、死と黄泉とのカギを持つのです。
  ヨハネの黙示録1:19そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。
前には「恐れるな」ヨハネは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、主は右手をヨハネの上において言った、恐れるな。そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。」・・・
クリスチャンとしては最も難しい所は本音で話すことでー更に困難なのは真のはなしである。まことを話せば、闇の世界からの攻撃を受けることになり、中止しなければ、更にパワーアップの攻撃を受け身になる。
主イエスは自己を紹介したように「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。」 主は私達に自己の栄光や権勢を紹介しただけではなく、更に励ましてくださった;「恐れるな、そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。」
今のクリスチャンや伝道者にとって、主イエスの言を正確に述べ伝えたければ、必ず聖書をよく勉強しなければならない。さもなければ、随意でやたら話すことになる。例えば、牧師として教会を担っているが、ある兄弟が昨日一台のピアノを教会に奉げたばかりですが、この兄弟には別の件で非があるのに、この場合でも言わざるを得ない。大勢の試練への対処は難しいだろうが、付き合っている親しい教会の兄弟にはお金があって、助けてもらえるが、彼にはいくつか問題点があって、その場合、やはり言わざるを得ないけど、言える人がどれ位いるでしょう?
中学校の時に救いを受け入れて、何年間のクリスチャンにもなったが、高校の時に、教会の台に大勢の若者が上がって:「私は全部の時間で神に仕える宣告した」のを見たが、わたしは当時、このような宣告ができなかった、なぜなら私は貧乏で、将来にはお金の為に神のまことを裏切るかどうかわからないから。
歴史上 お金の為に神を裏切る例が枚挙ではないが、主の弟子のユダヤーもこの中の一員ですが、初めてではない。
旧約聖書の異民の先知であるバラムのことですが、お金の為に神を裏切った。しかし口が甘かった;
『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
  民数記24:12バラムはバラクに言った、「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、24:13『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。24:14わたしは今わたしの民のところへ帰って行きます。それでわたしはこの民が後の日にあなたの民にどんなことをするかをお知らせしましょう」。
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 このまま言いましたが、心では、バラクの要求にイスラエル民を呪って、お金をもらうつもりである。
人間にはお金を愛するのが当然ですが、確実にお金の魅力がすさましいですが、お金が好きではないといえば、お金を認識できていないことを意味するが、お金を認識し、更に神を認識できれば、初めてお金の事に勝ることができるのです。もし貴方はお金の魅力が分かっていてもお金が好きではないといえば、それは嘘です。
サタンーは主イエス・キリストに三つの試しを与えた。その中の一つはこの世のすべての国々とその栄華とを見せて

  マタイによる福音書4:8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて4:9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。4:10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

  若い時の私はサタンーの試しが幼稚すぎると思ったが、この世のすべての国々とその栄華とを見せてもらっても、私もいらないと答えるかもしれない、まさか主イエスにそれを見せても断られるのも当然の成り行きである。本当に当時の私はそう思っていたのです。
日曜日に必ず礼拝賛美を参加するのは、間違いないですが;ところで;仕事の面接の時に面接官がよく「日曜日でも残業で出勤する場合があり、如何でしょうか?と聞かれた時に、礼拝に行きますので、無理ですよと答えれば、間違いなくつかってくれることがなく、一巻の終わりになると思います。多くの信者が教会へ行くのに遠いので、時間はないというが、でも平日の出勤までの距離が更に遠いのに、お金の為に行っているではないか?経営者にとって、利益の出るの仕事であれば、遠い外国にも飛んでいかれるが、電車で2時間ほどの距離でもあんまり遠いからいけないと思う兄弟姉妹が少なくありません。ですので、お金・物、名声、地位を軽視すべきではなく、これはいずれも人間の主を本当に愛するかしないか・の試めしである。

 今日は主に付ききりでありたいなら;では先ず主の言を理解し、心より信仰が固まれれば、異邦の民に正確な主の言を伝えられれば、又主は言われたとおりに「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり。」を信ずれば、力のあるクリスチャンになる。
いくら身内や自分の身には病気や不幸があっても、信仰が弱めるべきではない、肉体の意味には命ある限り、宇宙の創造主の事を探して、見つけてそして信じることです、短い一生の肉体生命では中に最も重要な事には、主イエス・キリストを認識することです。これによって、肉体生命を超える永遠の命が得られるのかどうか?いかにも大事なことだけではなく、霊魂の苦しみを受けることがなく、主の国に入れるのです。
ヤコブーの事を言いましょう;ヤコブーは非常に霊性に溢れる方でしたので、十二人の子供の為に祝福する言葉が非常に正確だった。モーセーは十二支派の時にヨセフーのことを最も多めに話したが、ヤコブーはユダーのことを最も多く予言した;
  創世記49:10つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。
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  そして後になって、イエス・キリストはヨセフの子孫から生まれるではなかったが、ユダの子孫より生まれた。ヤコブの十二支派に対する予言が後になって、予言の通りに起こったが、自分の事についてよくしらなかった。ヤコブの子ヨセフは十七歳の時にエジプトまで兄弟達によって、売られたが、三十歳の時にエジプトのつかさになられて、七年間の豊作の年が過ぎ、二年間の荒年を経過した時期に、三十九歳の時に父親をエジプトに迎え入れた。この間に二十二年の歳月があったが。ヨコブはちっともヨセフが生きている事を知らなかった。当時ヨセフの兄弟達はヤコブにヨセフが獣に食われて死んだと嘘についたが、二十二年後、いきなりヤコブに貴方の息子ヨセフがなお生きていてエジプト全国のつかさですと息子達から告げたことを聞いて、夢のようで、気が遠くなった。
  創世記45:26彼に言った、「ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです」。ヤコブは彼らの言うことが信じられなかったからである。
  そしてヨセフから遣わされてくる迎えの車をみて、目が覚めたようになって、ヨセフが生きていたことを信じ始めたのです。これほど霊性のある方で、特に神である主の自己紹介の時に常に「私はアブラハブ・イサク・ヤコブの神である」。間違いなく、神にとって、ヤコブの事をとても気に入ったと思える。しかし神はヤコブの身の上に起こった環境はいかがでしょうか?ヨセフがヤコブにとって最愛の息子であるが、二十二年の傷心、悲しみや絶望を味わった。
兄弟達;なぜなら神からヤコブにこのような遭遇をお与えになったでしょうか?勿論ヤコブが受け取る資格がある。
  イサクは年よりになってから、目がよく見えないが、二人の息子を見わけることができないほどでしたが、

  創世記27:22ヤコブが、父イサクに近寄ったので、イサクは彼にさわってみて言った、「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。27:23ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったため、イサクはヤコブを見わけることができなかったので、彼を祝福した。
ところでヤコブの年寄りの状態がまったく違います。彼は晩年の時に先知のヨセフが二人の息子エフライムとマナセを父親の前に連れてこられ、父親からの祝福を求めた;
  創世記48:13ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、ふたりを近寄らせた。48:14すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。
  創世記48:18そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。48:19父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。48:20こうして彼はこの日、彼らを祝福して言った、「あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、『神があなたをエフライムのごとく、またマナセのごとくにせられるように』」。このように、彼はエフライムをマナセの先に立てた。
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死と黄泉とのかぎを持っている

当時ヤコブの目が既に見えなくなったが、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください。ヤコブは拒んで言った、わかっている。こうして彼はこの日、彼らを祝福したので、後世ではこのような者はエフライムに幾万とあり、またこのような者はマナセに幾千とある」。

  申命記33:17彼の牛のういごは威厳があり、その角は野牛の角のよう、これをもって国々の民をことごとく突き倒し、地のはてにまで及ぶ。このような者はエフライムに幾万とあり、またこのような者はマナセに幾千とある」。
聖書の記載によってエフライムに幾万とあり、またこのような者はマナセに幾千とある」。ヤコブの予言がはっきりしていた。しかしイサクの一生は平坦順調だが、晩年になった時に何もかも分からなくなった、二人の子供への区別さえつかないが、ヤコブには十二の子供がいるが、祝福の時にはっきり分かって、孫への祝福も混乱しなかった。だから神はヤコブをイスラエルと名つけた;

  創世記2:28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。

  兄弟達;私たちは主に従って、すべての事が主から来るのを認識しなければいけない。問題点は主の事を本当に愛しているかどうか?もし本当に主を愛すれば、どんな環境にいてもその環境の背後にあるのが主からの祝福であることを信じて、そして認識するのがいかにも大事です。
  マタイによる福音書7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
誕生されたばかりの赤ちゃんに親としてアイスクリームを食事にし、与えられますか?いいえそれが成長に有益でないので与えるはずがない。必ず成長に有益のミルクを与えるです。毎日主にお祈り求めるが、実際に自分の祈り求めた事を強い信仰をお持ちでしょうか?お祈ってから、二、三日がたってから、すぐ忘れてしまった場合が多くないでしょうか?子供のほしくないものを親として自動的に買ってあげることがないはずだが、子供から欲しいものを買ってくれと要求されれば、例え;1回、2回、3回などお与えなくても、続けて要求されたら、買ってあげることになるでしょう。私達の天の父も同様になるので、もっと信じてお祈りすべきである。私達は自分が親としての考え方が存じても、天の父の考え方に対し、まったく理解していなかった。同じ自分の子供だが、常に親の所に来る子の方が愛されるでしょう;あんまり親に近付かない子であれば、どうでしょう?だから常に天の父の前に聖書を読み、毎日お祈りをする私達であれば、愛されて、そして私達のお祈り求めに答えてくださるでしょう。
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死と黄泉とのかぎを持っている

兄弟達よ;本当に神から祝福されたければ、常に主の前にお祈り求める方である。神である主だから
聖書の主イエスの行いを見習って、常にお祈りする事を努力し、中途半端にならないように
  ルカによる福音書18:1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
だから主に従い、神である主の身分地位を認識できるこそ、神の言を明確に述べ伝えられる。
  ヨハネの黙示録1:20あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。
ここでは七つの金の燭台との奥義は、七つの燭台は七つの教会である。旧約聖書にある聖の幕には只一つの金の燭台で、その上にそれのともしび皿を七つ造り、そのともしび皿に火をともして
  出エジプト記25:37また、それのともしび皿を七つ造り、そのともしび皿に火をともして、その前方を照させなければならない。
  
  ところで、ヨハネの黙示録ではヨハネが七つの金の燭台を見ました。この意味とは旧約の時にユダヤ人を記載され、新約になると全地の教会を意味する。「七」は完璧という意味でー「三」は神で、「四」は人間で、三プラス4=7−(神と人間の統合)、これこそ完璧である。只神の身で不完全で、只人間だけもで、不完全で、神と人間の統一で完璧となる奥義である。
我々知っている限り、いくら野蛮人であっても、人間であれば、必ず神を拝む。猿がいくら進化してもいくら訓練されても神を拝むことを知らない。猿の命の中に神という存在観念がなかった。だから人間が猿から進化されたという論説がインチキである。全世界のすべての動物が人間しか神を拝まない。群がりの虎や他の動物が神を拝むことをみたことがありませんか?絶対あり得ないーこの区別には何とも言えない奇妙ではないか?
聖書には人間に霊があり、神を拝む時に霊で拝まなければならない。
  ヨハネによる福音書4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。4:24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
  すべての生物世界、動物世界を見渡ってもこれは事実ですが、聖書では特に数千年前からこの事実を書かれたのです。人間が聡明や愚かのどっちでもよるになると何となく鬼のことを怖がるでしょうが猿のIQ
がいくら良くても、鬼のことを知らないし、こわがることでもない。猿には霊の世界と言う観念がないし、霊の世界に疎通することができない。ところで人間には霊があり、霊の世界に疎通することができるので、両者の区別が絶対証明できるのである。
まだ未開化の野蛮族の性格が獣と大抵大差別がないが、神を拝みます。彼らの文化を考査すれば、神を拝む台など見つかることが出来る。例えば森の奥に入って、ゴリラの巣に隠れて観察しても、神を拝む行動が全く見当たらない。
旧約聖書にあるのはユダヤ教のみで、聖の幕には只一つの金の燭台で、今日は全地どこでも教会があり、七つの金の燭台があり、前では「七」とは、完璧の意味で、ヨハネんp黙示録の証しは万の民へのあかしをするのである。
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死と黄泉とのかぎを持っている

教会は全世界のどちらにもあるので、七つの金の燭台で表すのだ。七つの星とは七つの教会の御使であり、それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。その右手に七つの星を持ちという意味;神である主は七つの教会の間に歩き、又七つの御使が主イエス・キリストの手に掌握される。
七つの教会の光景がよいものもあり、好くないものもあるが、七つの教会の御使とはなんですか?牧師やすべての聖徒?「御使というのは、使徒の意味である。
使徒とはなんでしょうか?例えば貴方には何人の子供がいるが、中の一人を呼んできて、新聞紙を買ってこいと指示したが、この新聞紙を買えに行かせる子供を使徒と言い、要するに一つの仕事に派遣される人間を使徒と言われる。この仕事が完成されてから戻ってきて、この使徒の身分も消える。『使徒』とはギリシャ語の意味は「派遣される人である」。
今日は自分に言い聞かせて;神によって派遣されたか?これによって私達は使徒であるかどうか決めるのだ。もし派遣されることであれば、教会の使者となるのです。
多くの派遣が誰からくるとははっきりしないばあいがある;聖書によると主に従って、人々を自分の側にお導くことではないが、主の前にお導くのです。人に仕えることは神の前に人を連れてくることこそ神によっての派遣と言える。
使徒の中に特別な十二使徒がいる、新エルサレムの城の柱には彼らの名前があるが、「衆使徒」のことをパウロの各教会による手紙に記載されている;
  コリント人への第一の手紙15:10しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。15:11とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。

  貴方からみる限り、パウロの仕事ぶりとペテロの仕事ぶりに比べれば、如何でしょうか?パウロの後世に残る影響は使徒ペテロより大きいだろうがーこれは我々による判断ではなく、神による判断になるのです。
  誰か主にしたがってから言うのが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。

  コリント人への第一の手紙1:11わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。1:12はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。
1:13キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。
3:21だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。3:22パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。3:23そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。
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死と黄泉とのかぎを持っている
もっと笑われるのは「私はヤウエイーに属すると言う人もあるが、イエス・キリストより偉いので・・・・本当に退屈な話ではないか?教会の中では、必ず分裂すべきではない、単純に神の前に来ればそれでよし。
「七つの星」は神の右手にあり、それは七つの教会の御使であり、この御使とは奇数ではなく複数である。一つの教会には一人の御使や複数以上の御使にもできるが、その教会の光景によるものですが、では発光するのが燭台であるか?或いは星ですか?勿論発光するのは星であり、それで星が燭台の中にありません;主は発光し、星も発光するので、今日の教会には神の光がなければ、燭台の光がつかないのです。
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