19:1この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、19:2そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。19:3再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。19:4すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、「アァメン、ハレルヤ」。19:5その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。19:6わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。19:7わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。19:8彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。19:9それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。19:10そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。
ヨハネ黙示録の十九章まで、最後の一週の終焉を迎えるハドマゲドン戦争である。十七章と十八章の内容が大淫婦への裁きを語るが、十七章の内容による説明は、この大淫婦
が、ロマ・カトリック教であり、十八章で、この獣がどうやってロマ・カトリック教を焼かれると説明し、もろもろの王や商人の反応も詳しく紹介された。
三年半にわたる大災難の中に敵キリストが、クリスチャンやユダヤ教徒を迫害すると同時に、カトリック教徒をも迫害した。特にロマ・カトリック教に対し、パチカンを全焼させた。これから十九章の前半にある小羊の婚姻の時がきてについて、語りましょう。
19:1この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、19:2そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。
歴代以来、ロマ・カトリック教は、神の真理を人々に酷く惑わした。聖書ははっきり教えて下さった結婚を禁じたり、食物を断つことは、惑わす霊と悪霊の教である。
テモテヘの第一の手紙4:1しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。4:2それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。4:3これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。
例えば;仏教の尼さん、カトリック教の神父やシスタはすべてこの悪魔の惑わす教えによって結婚しない事になっていた。これらは神の戒めではなく、悪魔からの教えである。
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カトリック教は赤ちゃんの為に洗礼を行うほか、マリヤを崇め、偶像を拝み、教会に多くの偶像を並べられる。これらの偶像にカトリック信者を拝ませる。本当に神の真理を乱れたので、大淫婦と呼ばれる。
もっとも酷いのは、人に聖書を読ませない事であって、人による多くの儀式を作り出し、偶像を拝みや先祖への祭りをさせる。これが淫行と言う。又政治利益を図って、人々に気に入れられる為、神の真理を捨て、人間やり方によって、塗り替えられた。カトリック教には、多くの讃美歌はマリヤへの賛美の為にあり、16世紀初頭の宗教改革家マチンルータが常にマリヤにお祈りをする。これは本当に大きな間違いだった。マリヤは人間で、人間にお祈りすることで、助けてくれるわけがないでしょう。カトリック教は神の真理を歪むだけではなく、聖徒に贖罪券まで販売してしまう。
聖書による信仰によって、義を得る、しかしカトリック教の教えは、贖罪券を買ってこそ、罪が許される。大金で贖罪券を購入すれば、親族のたましが許されると嘘付いた。これはまったくでただめだった。神の真理を次々に歪曲し、淫婦となった。
そして、この大淫婦がやっと神のさばきを受けた。十九章の1節と2節にある、ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり。なぜなら「救い」を我らの神のものを言う?カトリック教は、救いをマリヤのものにしてしまうから。そしてカロリック教は栄光を誰のものにしたのですか?同じように主の母親であるので、マリヤのものにしてしまった。
ところで、救いは主イエス・キリストのものであるので、マリヤのものにしてもマリヤが救ってくれるはずがない。栄光は勿論主イエス・キリストのものである。マリヤの場合は、栄光がないが、奨がある。
引き続き、力とは、同じように私達の神にある。ここで、言及した救と栄光と力の三つは、カトリック教が偶像への拝みによって、語ったのですが、カトリック教の神の言に対する違反による、救と栄光と力はマリヤのものにされた。興味があれば、カトリック教の発展歴史を読んで見て下さい。その人為的間違いによる神への逆らいを一目瞭然である。
もう一度言っておきますが;栄光は勿論主イエス・キリストのものである。
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神のさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである。多くの人が人の背後に悪行を行い、根本的に心に神に対する恐れがないので、罪を犯しても誰も見ていなく、勿論神も知らないと思い込み。しかしある日、裏で行う悪行も裁かれ、すべて明らかになる、即ち神の裁きは信実で正しいと言われる。
カトリック教は闇で行った多くの悪行が今になっても同じである。十八章13節による多くの罪の中に奴隷、そして人身なども含まれる。
ヨハネの黙示録18:13肉桂、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。
事実上、聖書が書いた通りにカトリック教は罪の巣であって、多くの証拠が見つかれるが、断片的になる原因が世界的に大きな勢力を持つカトリック教でるため、その切り札を公開するのに勇気がいる。
基督教にも多くの問題が有るが、更正教会としても、カトリック教ほどに比べらようができない。カトリック教には持つすべての問題が非常に厳密で、かつ腐敗黒く、神は必ず正しい裁きをするので;
19:2そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。
神のさばきは、真実で正しいので、聖書の教えの通りにすれば、恵みが下さるが、霊のある人間であれば、主を信じてから、必ず新しい人となって、神を愛し、善事を行い、戒めを守る。反対に守らなければ、失敗のクリスチャンの人生になる。失敗したら、どうなるかご心配でしょうか?
その下に「神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき」にある姦淫とは、偶像を拝むことである。一度ミサの追悼会で、カトリック教の神父が率先にして、先祖を祭るのを見たことが有りますが、今まで噂を耳にした事が有るが、其時が初めて見た。まさか本当にそうだった。その信仰の光景が随分乱れに乱れた。カトリック教は、愚かな行動で、神に逆らって、信者に神の真理を教える事がしなかったため、神の恨みを買っていた。
引き続き;「神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」歴代にわたって、カトリック教は数多くのクリスチャンを殺したが、想像もできないほど多かった。ある上映された教会に関する映画で、南アメリカのある所では、信仰の光景が好かった信者のことですが、ロマ・カトリック教の裏切りによって、いくつかの村で、数万人が残酷に殺された。唯現地の政府と計った利益の為であった。でもその映画内容に、幾つか保守かつ保留される隠し事が有る。これもカトリック教の一つの暗いところである。
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ということによって、ヨハネの黙示録19章にある神の正しい裁きが見る事が出来る。
19:2そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。
19:3再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。
カトリック教は現世で、権勢や栄光ヤ力が凄いとあっても、これらの罪を犯した法王や司教達は、全部硫黄の火の池に永遠に焼かれられる。
19:4すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、「アァメン、ハレルヤ」。19:5その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。19:6わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
この淫婦が裁かれると同時に全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。この時期が既に三年半の終わりの所に来ているが、引き続きハドマゲドン戦争に進む。十九章ああ節から述べ始める。
「われらの神は」―「全能者にして」―「主なる」;今は我々の主は既に王となったが、隠れの王である。霊の世界では、既に王であるが、三度空間の人間世界では、人間の目が見えない為に、人間が既に主が王である事を知らない人間の限られる霊性である。既に目に見えるのは、世界の年号が主イエスの年号で、今年は2010年であることが世界のどこにも使用されるーその影響力も非常に大きい。
しかし神から見れば、これはまだ本当の王とは言えない。王として臨めば、必ず直接の統率力と影響力があるので、主はまだ実際的に王となっていません。神の計画と予定があるので、その時期に成ればすべてが現れる。
もし主は王と成れば、朝の八時の日曜日学校に遅れるひとがいないであろう。又政府の各役所では、遅れることもなくなるだろう。四大帝国の第三帝国のアリキサン皇帝が会議に遅れる部下をすぐさま殺すと言う事によって、誰一人も遅れる事がしないであろう。なぜなら、彼は目の前に王となって見えるからである。しかし主は間もなくお見えになるので、その時に見える様になる。
19:7わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
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小羊は主イエスである。主は今でも独身だし、神の計画の中に今になっても独身である。と言うことを言うと、反対する人がいる。なぜ神の事を独身というのですか?としばしば聞かれた事が有る。しかし聖書による小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。花嫁は私達「教会」である。
教会も花嫁はその用意をしたからである。主が再来の時に、勝利を得る者が取り去られる。しかし地上の教会が全部用意したとは言えないであろう。唯少人数しか用意が出来ていない。まだ用意していないクリスチャンが千年の火の池に入れられ、千年後に用意出来る。だから主が来る時に失敗する聖徒が第2次死の害を受けることになる。この千年とは、第七日のことで、外には小羊の婚姻で、婚姻の宴を終えてから、新婦=全部の教会が完全に用意が出来るようになる。それは第七日―本当のミレニアムである。
19:8彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
上記の聖書は勝利を得るものを指すのである。常にいわれるが、衣は小羊の血によって、白く洗われ、即ち我々の罪を許す意味であるが、ここでは勝利を得るもとを指す。
「光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された」とは、聖徒たちの正しいおこないである。しかし、聖徒たちの正しいおこないというのは、何でしょうか?我々は常に人間としての宗教観念で、文字の意味を理解するが、それだけで足りない。ここにある「正しい行い」とは、慈善を行いや寄付金をするか、養老院に行って、老人に奉仕すると言う意味ではない。ここにある「正しい行い」は神の命である事、神の命でなければ、正しい行いと言えない。信仰によって、義を得る意味です。我々は主イエス・キリストを信じたから、義と言えるー神の命を得られる。だから地上に居る人間が神の命を得られなければ、すべて空の空になる、大富豪であっても役に立たない。
もし誰かエイズの病気にかかったとして、死にかけているが、彼の為に風呂を入れてやっても役に立ちますか?お金を寄付しても役に立ちますか?彼に特効薬を与えられ、病気が治れ、生命が続けられることが先決であろう。もしこの兄弟の体調がわるいので、病院の先生にかかって、直れない病気にかかって、後三週間しか生きられないと宣告されたら、幾ら美味し
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い物を食べさせてもらっても意義がありますか?だから間もなく死ぬ人間に何を与えれば宜しいか?唯一の物は「聖徒たちの正しい行いである」。即ちクリスチャンとして、神の義即ち神の命をに人々に述べ伝えよう。
マタイによる福音書28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
第一;すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、これは神の生命を得ると言う。第二;あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。これは羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
ヨハネによる福音書10:10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
教会は主イエスによって有ったのです;主は二つの使命の為に来られた。一羊に命を得させ、即ち救われて、更に、二豊かに得させるためである。―勝利を得る者となる。
これは主が行い義であって、もし私達が主と同じ様に働かなければ、賞を賜って下さるのでしょうか?兄弟達きちんと理解できるように、中途半端の理解がだめです。「聖徒達の正しい行い」とは、神の生命、福音を述べ伝えて、主イエスに命を得させる。更に人々に主の命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
ある人は生命を得たが、豊かに得させたではなく、唯新しく生れるだけで、しっかり試練をうけていない。もし何もかも神の事を認識していなければ、新しく生まれの生命を発揮できずにいれば、豊かな生命を得られない。
19:8彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
上記の言葉によれば、福音を述べ伝える勝利を得るものの正しい行いを指すものである。聖書によって、人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
ヨハネによる福音書15:2わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。15:4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。15:6人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
だから小羊の婚姻の宴に入れるものが実を結ぶものです。福音を述べ伝えるのは最も重要な戒めで、即ち聖徒が正しい行いである、この正しい行いがなければ、神の国入る事が出来ない。
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19:9それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
又私にこれらは、神の真実の言葉であると言われた。小羊の婚宴に招かれた者は全部勝利を得るものである。
小羊の婚宴の意義とは、招かれたものは、VIP客でありながら新婦でもあって、これは人間の知恵で理解できるとは限らない。招かれたものは幸いである。そして勝利をえるものであって、主と一緒に永遠に王となる。
天から降りて来るのように地は彼の栄光によって明るくされた。それはどれほど大きな栄光であろう。光が地上に照らして、発光させられるでしょうか?月はどうやって発光できたでしょうか?太陽は月面に照らして、月が発光出来るようになる。しかも神の栄光は地球に照らせば、発光だけではなく、非常に明るくされる。月の暗い面の所に衛星写真から見たそのでこぼこの洞窟の穴が有っても、太陽に照らされれば、発光させられる。
御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。
今の私達は、こんなに頑張れるのが、小羊の婚宴に招かれたい一心である。
ある日、知り合いの兄弟からオランダ銀行から発行される招待状をもらった。銀行のお得意さんには、香港の骨董品競り合い会社の競り合い会に参加する招待状であるが、オランダ
銀行に大口貯金のお得意さんに事前の展覧ショーと食事会を招待する。有名な画家の画の価格札に1枚が少なくとも日本年3千万以上が表示される。招待客の中に、銀行の中にある貯金は数億以上の資産がなければ、銀行から招待状を送ってもらえないでしょう。お金持ちさんが多いが、家の壁にこのような高価な画がかけられるのも僅かしか居ない。
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画は世界で最も価値のあるもので、どんな車や不動産など比べるものにならない。西暦2000年の時に、アメリカーニューヨークの競り合い会で、ピカソのアクションペインティングを売出され、最低標準価格は7000あまりアメリカドルでした。しかしこのようなアクションペインティングに参加できるのがよほど富豪でなければ招待券がもらえない。要するにお金があってこそ、この招待券をくれるのです。
所で、将来、神の小羊の婚姻の宴に参加のできるものであれば、本当に幸せな人である。地上のすべてが過ぎてしまえば、無になるのだが、真に価値あるのが、小羊の婚姻の宴に参加のできる招待券を持つのです。
御霊は言われた;「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
19:10そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。
聖書の中にある預言は主イエス・キリストのあかしの為にある。多くの人が認識していない。主イエスの御名がとてつもなく重要である。世界には、それぞれの邪説が横行し、西の世界で、イエスと言われ、東の世界で佛陀と呼ぶ。これは決してそうではない。主イエスだけ本当な神である。独一の真の神はイエスであり、主イエスの名あかしをするのも随意で入り乱れる事が出来ない。
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